イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月29日(木):禁じられた怒り

f:id:dotadotayocchan:20201017162259j:plain

『兄弟に向かってばか者というようなものはゲヘナに投げ込まれます』

・・・・・マタイの福音書5章21~22節・・・・・・

エスはすべての利己的な怒りを罪に定められた。聖書ははっきりと怒りを禁じている。ヤコブは言う。「人の怒りは神の義を全うするものではない」ヤコブ1章20節。パウロは命じる。「怒り、憤り、悪意、そしりを捨てよ」コロサイ3:8.と。異教徒でも最高の思想家は、怒りの無益なことを知っていた。キケロは言った。「怒った時には、何事も正しく、また分別をもって処理することはできない」と。セネカは怒りを「短期間の狂気」という印象的な言葉で表現した。・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20201014185139j:plain

そこでイエスは、根に持つ怒り、忘れようとしない怒り、和解を拒む怒り、復讐しようとする怒りを厳重に禁じられた。もし我々がイエスに従うならば、すべての怒り、特に執念深い怒りを、生活から追放しなければならない。クリスチャンは自分が受けた不正に対して怒ることはできない。これはまことに厳しい要求である。・・・・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20201012182741j:plain

この怒りは言葉となって人を傷つける。イエスはここで、その例を二つあげられる。このような怒り、このような言葉をユダヤの教師たちは禁じていた。彼らはこれを「言葉による圧迫」と言った。また、「侮辱の罪」と言った。「ゲヘナに行って戻ることの出来ない人たちが三種類ある。人の前で隣人を辱める姦夫、隣人を侮辱した名前で呼ぶ者・・・」

心にこもる怒り、言葉にあらわされる怒りは、共に禁じられているのである。・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200909111704j:plain

ラビたちに伝わっている話エレアザルというラビが、教師の家からの帰り道、自分の博識と高徳に陶酔していると、一人のみにくい通行人が通りかかって挨拶をした。ラビはこれに対して「お前はラカ(ばか)だ。なんとみにくい奴だ。お前の町の者はみんなお前のようにみにくいのか」と言い捨てた。すると通行人は、「その返事は出来ません。さぁ、行って私を造られた創造神に、『あなたのつくられた者はなんとみにくいのでしょう』

と言ってごらんなさい」と答えたという。ここに軽蔑の罪が指摘されている。

f:id:dotadotayocchan:20210202101726j:plain