イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月9日(金):ナザレにおけるイエス

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エスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手をおいていやされただけであった。

マルコの福音書:6章1節~5節。

この次の礼拝のメッセージの聖書箇所:内容は明日書く、今日は疲れた。

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追記:7月10日(土):

エスは会堂に入って行かれ、教えられた。イエスの教えは驚きではなく、一種の軽蔑をもって迎えられた。「彼らはイエスにつまづいた」。

人々はイエスのような背景をもつ者が、そのようなことを語り、行うことに憤慨した。親しさが誤った軽蔑を生み出だした。・・・・・・

彼らは言った「この人は大工ではないか」。彼等にとってイエスは単なる

「労働者」であった。今でいえば「土方」である。土方風情が何を偉そうなことを言うのかと、多分、イエスの幼少時代から知っていた村人たちは思ったに違いない。・・・・・・

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我々は、人を評価する時に、生来の価値からではなく、外部の偶発的なものによりたいという誘惑に注意しなければならない。・・・・・

彼らは言った。「この人はマリヤの息子ではないか。われわれはその弟妹たちを知っているではないか」。この中に、イエスの生涯の謎一つに対する鍵がある。イエスはわずか33歳で死なれたが、それでいて30歳になるまでナザレを離れなかった。(ルカ3章23節)。どうしてこんなに遅れたのか。世界が救われるのに待ち望んでいたのに、どうして、ナザレにこんなに長くとどまっていたのか。その理由は、ヨセフが早くに亡くなり、イエスの母と、弟妹の世話をしなければならなかったからであろう。イエスはご自分の家族が暮らしが立つようになって、はじめて前進されたのである。・・・・・・

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トーマス・キャンベルという詩人がいたという。彼が詩集を出したとき、それを父親に献呈した。父親はそのその本を手に取って言った「ふ~ん、わたしのトムがこんな本をつくれるとは思ったこともなかった」父は本の詩を読まなかった、ただ、立派な装丁の本を眺めて、そう言っただけだった。親しすぎることは、その人の偉大さを見るには、しばしば人の目を曇らせる。・・・・・・

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30年ナザレの大工、ヨセフの子、マリヤの子、ヤコブの兄、である限りナザレの村人は、イエスの友人であり続けたであろう。しかし、イエスが宣教を始めると、彼等は豹変した。私達もよく間違えて使う言葉がここにある「ふん、たかが大工のくせに、偉そうに、弟子とやらを連れて来て、説教するなんぞ十年早い」。人の目から、色眼鏡を取り除くのは、むつかしい。・・・・・・ 

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