・・・・五月のある晴れた日に・・・・
1915年の五月のある日、ファーブル先生は、アルマスの庭に出たくなりました。いすに棒をつけて、はこべるようにしたものに先生を座らせて、みんなで庭を一周します。庭は花ざかりでした。一年ほどほうっておいただけなのに、草ぼうぼうです。先生がはじめてこのアルマスにやってきたときのことが思い出されます。ラベンダーや、アザミ、ヤグルマギク、の花に、先生の愛したハチや甲虫(こうちゅう)が来ていました。自然のくりかえしは、先生が子供のころと少しも変わりませんでした。・・・・・
いすにゆられていると、のびた花が、顔のすぐそばにあり、ミツバチやクマバチ、ハナバチ、のブンブンという羽音が眠気をさそいます。マラヴァルの家のそばやサン・レオンの山の斜面を小さなアンリが歩いているときと同じです。あの時も、花が顔の高さにありました。ノビタキの丘、アヒルの沼、ミュズの流れ。・・・・・・・
なつかしいい小川よ、つめたい、すんだ、しずかな流れよ。あれからわたしは、とうとうと流れる大河を見た、無限の大海もみた。しかし、想いでの中で、お前のちいさなせせらぎにまさるものはなにもなかった。、おまえには、こころのなかに最初に、きざみつけられた聖なる詩の美しさがあるのだ。・・・・・・
みんなが運ぶいすの上でゆられ、虫の羽音を聞きながら、先生はむかしを思い出します。そうして、うつらうつら眠ってしまうのでした。おばあさんの顔、ジュールの顔、なくなった妻の顔、懐かしい人々の顔が浮かびます。まもなく会えると思うと、うれしいような気がします、しかし、目を開いて、かがやく光の中を飛びかう虫たちのすがたを見ると、体力のおとろえがつくづくざんねんになります。・・・・・・
「なんどうまれかわっても、わたしはおまえたちの研究ををつづけるだろう。それでも、興味がつきることはないに違いない。本当に虫の世界にはありとあらゆる思想をうみだすものがある・・・・」
ファーブル先生はそうかんがえるうちに、またうとうととしてしまいました。庭を一周した日のあと、先生のからだはますますおとろえました。尿毒症という病気です。病気はよくならず、十月十一日には息を引き取ってしまいました。満、九十一歳の生涯でした。・・・・・・
ひつぎは、家族や、先生がレ・ザングルの丘にスカラベ・サクレをみにつれていったときの生徒で、動物学者になっているブェシエール博士や、県知事などに見守られて、セリニヤンの墓地に向かいました。忠実な弟子ルグロ博士は、第一次大戦に出征中で、葬儀には参列できませんでした。
太陽がはげしくてりつける日でした。葬儀の列がオリーブの木に囲まれた小さな墓地に着き、ひつぎが馬車からおろされたとき、たくさんのバッタが飛び出しました。それはまるで偉大な昆虫学者を、出迎えるかのようでした。そうして、いよいよひつぎがファーブル家の、はかにおさめられるとき、一匹のカタツムリがその上を這い、墓石の上ではカマキリが首をかしげて、弔辞を聞いていました。・・・・・
墓石には先生自身の言葉がラテン語できざんであります。
『死はおわりではない。さらに高貴な生への入り口である』
ファーブル昆虫記第8巻:終章。
昔、子供のころ読んだファーブル昆虫記の巻頭にこんな言葉があった。
『人は美しいものを愛するのではない、愛するものが美しいのだ』と。
西欧では子供たちに昆虫はあまり馴染みではないという、しかし、日本の子供たちは昆虫が大好きが、田舎に棲む者は、大抵、子供の頃、カブト虫や、クワガタ、や蝶やトンボと遊んだ記憶がある。