イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月12日(月):大臣と昆虫学者

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ファーブル先生がアカネの研究に没頭していたある日のこと。実験室にいきなり一人の人がはいってきました。その顔を見て、先生はそれが文部大臣のヴィクトール・デュリュイであることにすぐに気がつきました。

「せっかくアビニヨンまできたのだから、パリに帰る前に、どうしてもきみの顔が見たいと思ってね、もう儀式はうんざりだ。あと何十分か、二人でゆっくり話たいんだが」とデゥリュイはニコニコして言いました。

文部大臣が、一介の中学の先生のところに、こんなふうに訪ねてくれるなんて普通はありえないことです。ファーブル先生はどぎまぎしました。先生の手はアカネの染料で、エビのように真赤に染まっています。おまけにワイシャツ一枚に腕まくりという恰好でした。ワイシャツというのは元々下着ですから、偉い人の前でワイシャツだけなんて、とんでもないことです。文部大臣は論文を読んだり、評判を聞いたりして、ファーブル先生のことを知っていたように、先生方も、大臣のことを知っていました。文部大臣になる前に、視学官として、アヴィニヨンの中学に来たことがあったのです。その時、デュリュイが学校でおこなった演説がいきいきとして非常に熱のこもった、気高いものだったので、同僚の先生たちと並んで聞いていたファーブル先生は強い印象を受けたのです。・・・・・

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さて、ファーブル先生が、

「申し訳ありません、こんな格好で・・・・」と言いますと。

「いや、いや、ちっともかまわないよ。わたしは働いている人に会いに来たんだから。ところで、きみは今、どんなことをやっているのかね」

と聞きました。先生はアカネの研究の話をし、今までの成果を見せて、布地にアカネのプリントをして見せました。

「ほほう」と大臣は感心して言いました。

「それにしてもこんな簡単な実験器具ばっかりで、よくそんな研究ができるもんだね。この研究室にもっと欲しい装置があるでしょう」

「いいえ、閣下、これ以上なんにもいりません。道具は工夫して作ります」

「なんにもいらない?。ふ~ん、きみはめずらしい男だな。ほかの連中はみんな、わたしの顔をみれば、あれがほしい、これがほしいと陳情ばかりするんだが、きみはこんなみすぼらしい設備に満足して、わたしがなにかあげようと云うのにいらんというんだな?」

「いいえ、いただきたいものがあります」

「何だね、それは」

「閣下の握手です」

「さぁ、握手しよう。心からの握手だ。でもそれだけじゃダメだよきみ、ほかに何がほしいんだか言いなさい」

「パリの植物園、閣下が管理しておられるでしょう。あそこに飼っているワニがもし死にましたら、皮をください。中にワラをつめて、この天井からつるします。そうしたら、ここは妖術師の巣窟にも負けないようになりますから」。大臣はこの元は、教会であった高い天井ををぐるりと見まわして、「なるほど、そりゃいい」と言って気持ちよさそうに笑いました。

「いまわたしは、きみが化学者であることを知ったよ。博物学者で、すぐれた本をかいていることは前から知っとったが。それにきみは昆虫の方でも有名だ。そっちの方は見せてもらいたいがもう時間がない。残念だがもうじき汽車の出る時間なんだ。駅まで送ってくれないか。二人で歩きながら話すとしよう」

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ファーブル先生と大臣は、アビニヨンの街をとりかこむ城壁の外にある鉄道の駅まで、真っ直ぐ続く並木道をゆっくり歩いていきます。・・・

先生は、大臣にアカネのことや、今夢中になっている昆虫たちの生態の不思議さについて、語りました。大臣は、すっかり話を聞いて、ファーブル先生を励まし、「きみには、すばらしい前途がひらけているよ」と言ってくれるのでした。・・・・・・

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二人が楽しそうに話しながら歩いているとき、貧しい身なりをした老婆が通りかかりました。長い間の畑仕事のためすっかり腰は曲がっています。その老婆は立派な身なりをした大臣に、おそるおそる手を出しました。少しめぐんでください、というのです。大臣は胸のポケットをさぐり、2フラン銀貨をつまみだすとその老婆の手に握らせました。ファーブル先生も

、せめてその十分の一でもあげようとしましたが、先生のポケットはいつもの通りカラッポでした。先生は、その老婆の耳元でささやきました。

「いまおめぐみくださったのが誰かわかった?。皇帝陛下の大臣様だよ」

小さなおばぁさんはビックリしてとび上りました。目をみはって、言いました。

「まぁ、おやさしい、きょうはまぁ、なんと運のいい・・・大臣様に神様のご加護がありますように、ペカイール」そして頭をペコペコさげて去っていきました。

大臣は先生に聞きました。

「ペカイール?。どういう意味かね」

それはその地方の方言でした。先生は説明しました。

「この地方で、その人がもっとも感動した時に使う言葉です。悲しい時にも、うれしい時にも、最も強い感情をあらわすときに、ペカイール、と言います。その言葉そのものが詩なのです」。

そう説明しながらも、ファーフル先生自身も心の中で『ペカイール』とつぶやいていました。あわれなまずしいおばあさんに、こんなにやさしくしてくれる大臣に感動していたのです。

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