イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月14日(金):イエスの肖像

 

キリスト教作家と言われる人々は、大抵「イエスの生涯」と言うものを書きたがる。そうした書物を何冊か持っているが、如何せん福音書に記されている、「イエスの生涯」なるものは、あまりにも限定されている。救い主の誕生の次第、30歳位になって宣教を開始したおよそ、2年~3年の出来事、それに12歳のときのエルサレム詣での記事。この三つだけである。33年の御生涯を書き記すにはあまりにも、「間」が抜けているのである。これでは、どんな作家も、その生涯について、書き記すことはできないのは当然だろう。・・・・・・・

しかし、随分昔に、この難問を解決してくれた人がいた。それが誰の書物であったっか、未だに思い出せないのは残念なのだが、確かにその書物を読んだ、そして「目からうろこ」と表現してもいいほどの衝撃を受けた。そこにはこんなことが書かれていた。「イエスの生涯」の欠けた部分を、洞察するには、イエスが語られた「譬え話」を読むがよい。と。福音書の中に、譬え話は、長いもの、短いもの合わせて39ある。そのたとえ話の中にイエスのお姿が見られるというのである。・・・・・・・・・

例えばこうである。一枚の銀貨を失くした女、彼女はイエスの隣に住むおばさんだったかもしれない。そして、膝をついて、家の中を一緒に探してあげたかあも知れない。また、放蕩息子のたとえ話、実際当時、隣の村で起こった出来事だったかも知れない。それが村々に噂となって伝えられ、あるところでは、面白可笑しく、揶揄されて語り継がれていた出来事だったかもしれない。・・・・・・・・

【天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです】(マタイ:13章)。この譬え話は、他のものと同様に、情景が写実的である。おそらく、ガリラヤ湖で、漁をしている漁師たちの一部始終を、イエスは、長い時間眺めておられたのであろう。猟師たちが網引き上げ、広げ、座り込んで、食べられる魚と食べられない魚をより分ける仕草をしっかり見つめている。食べられる魚は器に入れている。ダメな魚は、砂浜に放り出され、焼け付いた砂地の上を苦しそうに、ピヨン、ピヨン、と跳ね回っている。そんな情景をイエス様見ておられたのであろう、こうしたたとえ話の記述はどれも、非常に写実的であり。実際にその場に居合わせた者の、話であることが多い。そのような事柄から、39のたとえ話の、その中に、その情景の中に、そっと佇んでいるイエス様姿がある。・・・・・・たとえ話の中に、イエスがおられるとの、「思い」は、そうした聖書の読み方の重要なことの一つであるし、たとえ話の中にイエス様の姿を発見するのは、嬉しい事でもある。こうしたたとえ話を織り交ぜながらであれば、クリスチャン作家たちも、その生涯を書き記すことは可能であろう。