イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

3月9日(土):ヨナ書の主題

この前の説教主題は、ヨナ書の主題ということで話した。最近旧約聖書から少しずつ話すようにしている。信徒さんもなかなか、旧約を読む機会もなく、正直たとえ、読んだとしても、その内容を把握するのは非常に困難である。牧師自身にしてもそれは同じなのだが、いろいろ、解説書を持っているだけに、何とか読み込める部分もある、というのが実情だ。・・・・さて、ヨナ書であるが、全体を見ると、感じることは、イエス様の譬え話に似ているということである。ただ、かと言って、このヨナの出来事を、譬え話だけに留めておくのには無理がある。それは、イエス様自身がこの、ヨナ書に言及しておられること。それに、旧約には、ヨナが実在の人物であることが、書かれている。そんなわけで、このヨナ書自体を、単なる、空想、作り話、比喩的に捉えることはできないということが分かってきた。・・・・・ヨナについては、その預言者として資質が問われている、いわゆる、その「性格の悪さ」。「神への不従順さ」。「頑固さ」。旧約の他の預言者とは全く異なる資質がいくつもあげられる。・・・・・こうした事柄を勘案しながら、それではこの書の、「主題は何か」と問われれば、『神があなたの敵を赦す、と言うことをあなたは受け入れられるか?」。と言うことなのだそうである。要するに、ヨナはあの暴虐の都市、ニネベを、どうしても赦すことはできなかった。たとえ、自分の命を懸けても、「ニネベは滅ぶべき」。それに対する神の回答は、その最終節にある。すなわち。『主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜に生え、一夜で滅びたこの党ゴマをさえ惜しんでいる。まして、わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか』。最後に、一つ気がかりな事がある、果たして、ヨナは神の最後のメッセージをどのように受け止めたのかと言う問題である。それはこの書の作者が誰であるかに、絞られる、この書をヨナ自身が書いたのであれば、当然ヨナは、神の最後のメッセージを受け入れ、悔い改めたことであろう、その証としてこの書を書いたと認めることができる。しかし、一方、第三者が書いたとすれば、ヨナは、旧約時代神に逆らった、性格の悪い、預言者としての見本にされた、ということになる。さて、どっちなのかな?。