イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月16日(火):主はわたしの泣く声を聞かれた

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悔い改めの詩篇というものが七つあるが、その最初のものがこの詩(詩篇6:8)である。三節までを読むと、この詩人は今病の床に、それも死を待つような重病の床にあることがわかる。しかも、彼は、それが罪の故であることを思い非常に心の動揺を覚え、主よ、わたしをあわれんでくださいと叫んでいる。そして4節には、神よ、あなたのいつくしみによってわたしをお助けくださいと、祈っているのである。5節の死においては、あなたを覚える者はないという詩人の言葉から、イエス・キリストの十字架、復活なしには死への勝利はありえないことを思わせられる。・・・・・

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6節、7節、を読む時、寝静まった夜、眠られずにいる病人に迫って来る不安、寂しさ、また次第にからだが弱っていく中で、何とかして希望をと思っても、それがくずされていくという、この上ない心細い気持ちが伝わってくる。・・・・・・・・

ところがその彼に、「神はわたしの泣く声を聞かれた」という確信が与えられたのである。そして神による勝利を賛美しつつこの詩は終わっているのである。この詩人は大きな不安の中にありながら自分の泣く声を聞き、涙を御覧になる神を示され、それゆえに暗い所から立ち上がることが出来たのである。・・・・・・・

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新約聖書には、魚が一匹もとれず帰ってきて網を洗っているシモンを主イエスが御覧になった。また生まれながらの盲人が道端に座って物乞いをしているのを主イエスが御覧になったという記事がある。この、御覧になったということから明るい世界がひらけてきたのである。神が、主イエスが目を注がれたところから、その慈しみによってあたかも回転舞台が変わるように、まったく暗黒の舞台が明るい舞台に変えられてしまったのである。ともすると、私たちは自分の人生を明るく変えていかねばならないように思い、そのために一生懸命になる。また、泣いている人生ではなく、笑いの多い人生をと願う。けれども、私の人生がそのいいずれであるかは大きな問題ではない。大事なことは、その所でいつくしみの灯をともされるかである。・・・・・

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スポルジョンが、部屋を明るくするために暗さをポンプで追い出す人がいるだろうか、ただ、灯をともせばよい、と言っているのはこのことなのである。・・・・・

この詩人は、主は私の泣く声を聞かれたとその主のいつくしみ目を注いだ時に、彼の暗い世界、死の世界、陰府のような世界は、勝利の世界に変えられた。悔い改めとはそいうことなのである。自分はこんな悪いことをした。あんな悪いことをしたと並べ立てることだけが悔い改めではない。それはむしろ悔い改めの結果生まれて來ることである。

悔い改めとは、自分の生活の中で神がどんなにいつくしみ深い方であるかを知って喜び、そこから新しい生活が始まることなのである。(旧約聖書一日一章:榎本保朗師)

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私にとって榎本師のこの書は、聖書を読むうえで欠かすことの出来ない書のひとつであった。私がこの書を読み始めた頃には、師はすでに亡くなられていた。52歳の生涯であったが。アシュラム運動を日本に広めようと奔走された。「私の毎朝の祈りの時」も師の教えに沿ったものである。この書が書かれたのは1977年であり、その序文が師の絶筆となった。ブラジルへの伝道旅行の途上で、召された。最近は専らW・バークレーの書を読むようになったが、時々、榎本師のもとへ帰ってくる。文章が平易で、信仰生活に直結することが書かれていとてもるので大切にしている。先日、フェースブックで先生のご子息、恵師にお会いした。先生の状況や、私の書いたものも読んで下さり、コメントまでいただいた。以前より面識があり、日光オリーブの里数年前にお会いして以来である。私の願いは、琵琶湖のほとり、アシュラムセンターを一度でも訪ね、亡き恩師の「香り」を味わいたいと思っている。

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