イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月27日(月):ルターをめぐる三人の女性

f:id:dotadotayocchan:20210202101956j:plainルターの宗教改革を語る時、ルターの人格形成とその働きに寄与した三人の女性に言及せずにおくことはできない。

一人はマルガレーテ・リンデマン・ルター

ルターの母親である。彼女は貞淑、敬虔、勤勉、まれにみる賢婦人であった。子供の進学、就職、結婚についての心配する母は多いが、子供の魂の救いと成長について心を砕く母はまことに少ない。マルガレーテはそうした数少ない母の一人であった。彼女はルターの幼いときから、十戒、、信条、主の祈りを教えた。後年のルターの福音信仰の種は、この母によって蒔かれたと言っても過言ではない。・・・・・・・

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ウルズラ・コッタの夫はアイゼナッハ町の屈指の商人であった。

ルターは学資を補うために吟遊学生の群れに加わって歌を歌っていた。コッタ夫人は彼の澄んだ瞳と美しい敬虔な歌声に心を惹かれて、自宅に宿らせて世話をした。故郷を遠く離れている学生は、寂しさのあまり誘惑に陥りやすい、これを救うてくれるものに、信仰による優しい婦人の慰めや励ましに優るものはない。ルターは多感な青春時代をコッタ夫人の優雅な家庭に迎えられ、人生の高貴なものに触れ、その人格形成に大きな感化を受けた。ルターは当時をかえりみて。「世に慕わしきものにして、主をおそるる心をもって相愛する夫婦の愛の如きはない」。といっている。・・・・・・・

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カタリーネは、マイセンの貧乏貴族娘で、十歳の時システルシアン派の修道院に送られ、十六歳で尼になったが、ルターの福音主義思想の感化を受けて、二十四歳の時、尼院を脱出してウイッテンベルグへ逃げてきた。彼女は必ずしも美人ではなかったが、端正で堅固な性格をそなえ、非凡な才能を持ち、不思議に人を魅了する力があった。

ウイッテンベルグの学生間では、シェナのカタリーナと呼ばれ評判だった。デンマーク王クリスチャン二世が、1523年の秋にルカース・グラーツを訪問されたとき、金の指輪を贈ったほど王は彼女に心ひかれた。(中略)

1525年二人は結婚した。新郎は42歳、新婦は26歳であった。ルターはこの結婚について「父を喜ばせ、教皇と悪魔を困らせ、殉教の前に自説を実践によって証明するため」であると告白している。

この結婚はルターを幸福にした。ルターは腎臓病、頭痛、結石、不眠症、痔、便秘、目まい、耳鳴り、などいつも病気勝ちであったが、彼の健康が激務によく堪え得たのは彼女の配慮の賜物であった。また、ルター家には有名無名の来客が多くて、かつ気前よく貧者に施していたので、いつも貧乏をしていたが、彼女の家政の手腕で何とか切り抜けていた。彼女は菜園、果樹園、魚池を作り、牛を飼い、下宿屋までして家計を補った。

また、ルターの信仰の好伴侶であった。

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ルターが改革の難航のため失望落胆していたとき、彼女は喪服で出迎えた。 ルターが誰か亡くなったのかと尋ねると、「神様が」と、答えた。 ルターが神が死ぬはずがないと言うと、「あなたがそんなに悩んでいるのを見ると神様が死んだとしか考えられません」と答えたので、ルターは、はっとして自分の非を悟った。 そして活ける神を仰いで、再び勇敢に改革の戦いを続けたのである。 ・・・・

ルターは彼女を熟愛し、「愛するケーテ」と呼び、「たとえフランスとベニスを与えられても彼女には代えられない」と告白し、また「結婚は神の言葉の次に貴い宝である。

神の最上の賜は敬虔な快活な神を畏れる家を整うる妻である」と言っている。 彼の家庭は全プロテスタントの牧師の模範となった。

これらの三人の女性は宗教改革の遂行のために神の備えたもうた器であったというべきであろう。

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