イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月3日(土):誰もさばくことはできない (1)

誰も人をさばくことはできない。その主な理由は次の三つである。

我々は事実の全貌、あるいは人格の全体を知ることはできない。

昔、有名なラビ、ヒルレルは、「あなた自身がその人の立場になってみるまでは、他人をさばいてはならない」と言った。誰もが、他の人がどんなに強い誘惑を受けているかは知らない。落ち着いた安定した人は、情熱的で、一寸したことにも激昂する人がどんな誘惑を感じているか察することができない。良い家庭やクリスチャンの環境に育った人には、貧民街、あるいは、悪のはびこる地域で青だった人が感じる誘惑が分からない。立派な両親を持った人は、不幸な遺伝に苦しむ人が経験する誘惑を知らない。もし、ある人たちが今まで経験してきたことを知るならば、その人たちを悪いと言って攻撃するどころか、そこまでよい人になれたことに驚くことであろう。・・・・・・

誰でも、他人の人格の全体像を知らない。ある環境では魅力がなく、不愉快と思われる人も、別の環境では、驚くほどの力と美を発揮する場合がある。

マーク・ラザフォードはその小説の中で、再婚した男のことを書いている。彼の妻も再婚で、十代の娘があった。この娘は陰気で器量も悪く、魅力が全然ないように見えた。ところが、突然、母親が病気になると、その娘は別人のようになり、実にいき届いた看護をし、奉仕を献身の神髄を示した。彼女の暗さに突然光が差し、その人格からは以前誰も気づかなかったものが輝き出たのである。・・・・・・・・

ラブラドールという石の結晶がある。。一寸見ると曇って光沢がないが、それを回しているうちに、光がある角度から当たると、ピカッと、美しく光る。人間はこのようなものである。一見して魅力のないように思われるのは、その人の全人格を知らないからである。誰でも、内面に何かよいものを持っている。我々は、表面に現れた欠点を見て、人を批判したりさばいたりせず、その人のうちに秘められた美しさを見いだすようにつとめなければならない。我々はこの事を他人から期待している。そこで我々は、他人にもこのことをしなければならない。