イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月2日(金):報酬

すべての人が善の輝かしい模範となることはできない。すべての人が、義の傑出した範例として世の注目をあびることはできない。しかし、善人を助けることは、善人の報酬を受けることである.。

H・Lギーは美しい物語を書いている。ある片田舎の村の青年が、苦労の末やっと牧師になることができた。勉学中の彼を援助したのは村の靴屋であった。この靴屋は、この職業の人によくあるように、広く本を読み、見通しのきく人で、子供のために種々の尽力をした。やがてこの子供が、説教者として認可されることになった。その日がきたときに、靴屋は彼に言った。

「私は福音を伝える牧師になりたいと思っていましたが、種々の事情でできなくなりました。けれどもあなたは、私ができなかったことをしようとしています。それで私に一つ、約束してください。私はあなたのために無料で靴をつくりますから、あなたが講壇で説教するときに、それを履いて下さい。そうすれば私は、あなたが私の靴を履いて、私がいつもやりたいと思っていた福音の宣教をしているのだと思いましょう」。

確かにこの靴屋は、説教者と同じように神に仕えていた。そしていつの日か、彼の受ける報酬も、説教者と同じものであろう。