イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月14日(木):パウロの終局

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『私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました』

・・・・・・・テモテⅡ4章6~7節・・・・・

パウロにとって終わりが近づいて来た。エラスムスが年老いて来た時に言った。「私は老兵である。私は除隊命令をもらっている。戦いは若い人々に任せねばならない」と。偉大な戦士パウロは、テモテがそれを取りあげるように自分の武器を下に置いた。・・・・・・・・

『私の生命は犠牲としてささげられるべき時が来た』と言った。パウロは、自分が死刑にされるのだとは少しも考えなかった。彼は自分を神にささげようとしているのだと考えた。彼は命を奪われるのではなく、自分から命を犠牲にしているのである。パウロはその回心の日から、ずっと、あらゆる彼の持ち物、金銭、学問、力、時間、身体、その鋭い精神、情熱、を神に捧げて来た。もう、神に捧げるために残されているのは、彼の命だけであった。パウロは今や喜んで、その命を神のために捧げようとしていた。・・・・・・・

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彼は言葉を続けて、「私が世を去るべき時が近づいた」と言っている。

この「去る」という言葉には、種々の情景が含まれている。その一つ一つはパウロが死んでいく際の情景が含まれている。それは、動物を荷馬車またはすきから解放する言葉である。パウロにとって、死は、辛労からの休息であった。かれには(死)によって重荷をおろすことは喜びであったろう。「苦労の後の安楽」「嵐の航海後の入港」「生存後の死」は好ましものである。生活に激しく情熱を燃やした後は、よく眠れるものである。

そこで、クリスチャンにとって、死は休息のために重荷を降ろすのと同じである。死は自由になるために、「かせ」をはずすのと同じである。死は天国に住まいを造るためにキャンプ地の杭を打ち込むのと同じである。死は、我々を結びつけているロープを投げ出し、神の臨在に終わる航海に出航することである。いったい、クリスチャンで死を恐れる人があろうか。あるはずがない。パウロは、確かに、その終局の果てを見据えていた。彼は、ネロに命を奪われるのだとは考えていなかった。その死は、パウロの最後の神への捧げものであった。

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