イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月5日(水):聖書翻訳について H・ジェーコブズ博士

 

聖書の翻訳はどの程度の権威を持っているかと言う問題について考えてみよう。

神からの霊感によって聖書が与えられたとき、神は人間の言葉をもちいられたが、それはただ聖なるみこころと、聖なる事実の説明とをつたえる媒介としてであった。そして霊感を受けた記者たちは、このような神の導きと統御があったので、その結果、人間の言葉で可能な限りの完全さにおいて、神が伝えようとされたことを記録したものである。しかし、これらの言葉は、思想に従属するものである。それは個々の文章のばあいだけでなく、個々の書の場合にもそうであり、また、聖書全体としてもそうであった。そこで、神の言は、いろいろの国語を持った人々のためのものであるので、これらの思想は、はかの多くの国語に翻訳されねばならない。それが英語、ドイツ語、ギリシャ語、あるいはヘブライ語等で書かれていても、同じ聖なる生命を与える真理であることには変わりはない。けれども初めの執筆者が霊感を受けているのに反して、翻訳者はそうではなかったから、翻訳されたものは、それぞれの書が書かれた原語と原文に従って、たえず、改定されてゆく。原語を翻訳する場合、翻訳すべき国語に完全に同じ意味の言葉はないので、一つのことばが翻訳されると、それによってそこにある連想を失い、意味がぼやかされ、別の意味が加えられる。論争や論点の裁決の中心点が、一言一句に移ってくると、その意味を確かめるに、原語を引用することが必要になってくる。けれども聖書の一般的な大意や主題に関しては、翻訳から、ほぼ正しく得ることができる。・・

 言葉は自筆の原本にだけ、最終的な権威を持たせると主張する人があるが、実際において、そのようなものはとっくの昔になくなっている。またそれからの直接の写本もわからない。けれども最古の新約聖書の写本と比べて見ると、本文の中に15万以上の変化があるが、意味が重大な変化をしているのは極めて僅かで、キリスト教信仰のどの信仰箇条にも影響を与えたり、修正したりするようなものは一つもない。・・・・・。

(H・ジェーコブズ キリスト教教義学 第1章:15)