イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月6日(木):鬼籍の人たち  (2)

これから折にふれ、「鬼籍の人たち」という事で、幾人かの人たちのことを書いて残しておきたいと思う。随分前のこの題で書いているが、主に、同級生のことを書いていきたい。私たちの同級生は昭和19年春から20年3月生まれの者たちである。丁度、終戦間際に生まれた者たちで、働き盛りの若者は兵隊にとられ、その分子供の出生数も少なかった。生徒数は概ね50人で、クラス替えなどなかったので、小学1年生から中学まで、ずっと同じ顔触れであった。そういうことがあってか、同級生は、それぞれに親しい関係であった。

 推司と言う同級生がいた。頭の髪の毛が薄く、おっきな頭にうぶげがパヤ、パヤと生えているような状態だった。それに、兎口だった。男の子の容貌としては、あまり芳しくはなかったが、同級生の間では誰も気にする者はなかった。彼は中学を卒業すると当時当たり前になっていた「集団就職」で東京、確か川崎方面に就職した。いわゆる「中卒」は、高度成長期の日本で、「金の卵」ともてはやされていた頃である。「金の卵」とは企業側の方便で、彼らの仕事はこれまた。流行語になっていた、「3K」である。要するに、「キツイ」「キタナイ」「キケン」と言われる職場がほとんどである。

 私も高校を出て横浜の段ボール会社に就職したが、このままではだめだと思い、大学へ進むため、二年半で帰郷した。多分その時だったと、思うが帰郷するために、上野駅にいた時、偶然にもその、推司と言う同級生に、上の駅のホールでバッタリ出くわした。昔は、上野駅が東北の玄関口であった。誰の歌だったろうか。「ふるさとの訛り懐かし停車場へ、そを聞きに行く」かなりうろ覚えであるが、東北から出て東京に住んでいるものが故郷が懐かしくて上野駅に行ってみた、そこには東北人が大勢いて、お国言葉が飛び交っている。そんな雰囲気を懐かしむために、上野駅に行ってみるのである。

 中学卒業以来の、上野駅での再会で、ヤァ、ヤァ、と声を交わして、同じ夜行列車に乗り込んだ。列車の中で、ふと思いついた。「平泉によって行こう」と。東北の雄、藤原三代の大伽藍がある。前に一度見ていたがもう一度訪ねて観たくなった。その事を話すと、彼もすぐその気になった。それで、平泉駅で途中下車した。あいにく、バスの便がなく、小一時間ばかり歩いたのを覚えている、丁度8月の熱い時期でエライ難儀をした。しかし、あの大伽藍、金色堂金閣寺など、回って帰った。・・・・・・・

 その後彼は、地元の鉄工所で働いていたようである。何年に一度か同級会があったが、大抵はそこで顔を合わせた。彼はちょく、ちょくあの平泉での思い出を話した。私にとっては気まぐれな小さな観光だったが、彼にとってよほど楽しい思い出になっていたのだろうと思う。

 情報屋さんというのがいる。同級生の節子と言う女性で、町役場に務めていた。役場はいろいろな情報が集まるところである。彼女は、そこで、同級生のいろいろな情報を耳にしていた。その彼女が、推治が飲んだくれて歩いている、と知らせてくれた、もうその頃は40歳も過ぎていた年齢である。結婚したという話も聞いていないし、独身貴族ならぬ、独身孤独にさいなまれていたのであろうと推測される。気立てもいい男ではあるが、女性たちは、みつくちの、禿頭には寄ってこない。寂しくなかろうはずがない。

 そのうち、情報屋さんから、彼が死んだと連絡があった。冬の夜飲んだくれて、歩くことも出来ず、どこぞの家の塀にもたれかかって、そのまま、朝までに凍死したようである。これまで、何度か、そんなことで警察の保護されてきたが、運悪くその夜は警察に見つけられることもなく、そのまま、息絶えたのであろう。

 哀れと言えば哀れな、短い生涯であった。後で漏れ聞いた話では、彼はその家の実子ではなく、家の者たちからはなされて、小屋のようなところに住まわされていたという事である。親も知らず、兄弟もなく、家もなく、友だちとていなかったであろう。今になって思うと、同級会に出ては、しきりに、あの平泉の話を持ち出して、いたことが何となくうなづけるような気がするのは、思い過ごしだろうか・・・・・