イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月2日(月):年間聖句


1・・2022年の教会の年間主題聖句は《見よ。わたしは新しい事をする。今、それが起ころうとしている》であった。今年は、《幻がなければ、民はほしいままにふるまう》(箴言29:18a)に決めた。

2・・毎年年末には、一年を振り返って、「年末雑感」みたいなものを書き記すのだが、そもそも、昨年12月は、多分記事としては一本くらいしか書いていない。なかなか、気持ちが向かない日が多かった。

3・・12月14日、夜10時20分、高橋千香子が召された。正確には60歳だったという。20歳の頃から難病を患い、38年間、施設暮らし。最後には体重が25キロ近くまで落ちていたという。姉の真知子が最後まで付き添い、最後の言葉が「ハ・レ・ル・ヤ」だったという、これとて、真知子が口移しに教えたことに違いないが、主の御愛は、そのことを、良し、としてくださるだろう。父親の正男じっちゃんが、棺の前で、「すまない、すまない」とつぶやいていたが、ばぁさんの時もそうだった。「じっちゃんよ、死んでから謝ってもだめだよ」同じように、つぶやいた。じっちゃんも87歳、いずれ、ばっちゃんと、千香子同様、私の所で、葬儀をすることになるだろう。

4・・昨年の前半は、実兄定喜のことにかかりっきりであった。何度青森まで出かけたわからない。最近の医療は、「適当な時期」に見切りをつける、要するに回復の見込みのない、老人患者には「苦しませないように」という理由で、「クスリ」を投与する。

何度これを経験しただろうか。古くは、私の母がそうであった。ひどい喘息で、さすがに見るに堪えなかった。医師がどうする?。と聞いたので、「クスリ」を処方してもらった。兄弟たちは誰も知らない、私の一存で、決めた。この、クスリを使ったのは何人になるだろうか。母に始まって、3,4年前、長女に子供たちがこれをやった。これも喘息の発作がひどくて、止むを得なかったのかも知れないが、わずか一週間で、」やったことに、未だに憤りを覚え、姪たちとは絶交状態である。母の時は3年以上かかった。兄は、半年以上、それぞれ看護を続けたのに。千香子もクスリを使った。

5・・昨年は、秋田への来客が、2件、8月に栗原葉子さんが、川崎から訪ねて来た。この件については、前に書いてるので、省略する。他に、ちえ子の姪、と娘さんがやって来た。16年ぶり、先回は、家族全員来てくれ、しかも一週間も滞在して、いっぱい、いっぱい、楽しい思い出をつくってくれた、娘のそのみちゃんも大学4年生、来年から高校の英語の教師になるそうだ、

5・・本来なら、もう一組、岐阜キングスガーデンの理事長ご夫妻が、訪れてくれる予定であったが、奥さんの足の具合がよくない、それで今年は見合わせることになった。脚にこの人も難病を抱え、「去年来る前に、妻は足に障害があり、引きずって歩いています」と事前に知らせてきていた。それにしても、仲睦まじいご夫妻であった。この御夫婦が来れれば、枇杷島の安藤夫人も同行する予定だったが、これなくなった。82歳とても一人では名古屋からは来れない。ご主人の昭さんが、まだご存命の頃、秋田へ必ず行く、と張り切っておられたが、週にに三度、人工透析をしている身で、いざとなったら、ドクターストップがかかり、中止となった経緯がある。奥さんは、御主人のできなかったことを、自分でやりたかったのであろう。いつの日か来て欲しいけど無理はさせられない。

6・・それにしても、この教会は、そのかかわる人たちが、皆、難病や、障害を持つ人が多いのだろう、つくづくそのことを思う。数え上げればきりがない、というより、信徒と含め、「在家」(事情があって、礼拝に出れない、バプテスマを受けている人たちを意味する)の者たち、すべてが障害者であり、ないしは、障碍者を抱えた人たちばかりである。

7・・この数か月、音沙汰なしの福原兄を年末、ようやく訪ねることができた。毎年秋になると、「渋柿」を持って訪ねて來るのだが、秋に一度も顔を出さない。心配しながら、ひょっとしたら、白骨化しているかも知れないと、本気で案じながら、出かけた。

玄関で大声をあげると、のそのそと、起き出してきた「あ、まだ生きていた」というのが偽らざる気持ちであった。8,9年になるだろうか、彼が教会を訪ねて来た、母が死んだので葬式を出してくれとのことであった。若い頃自分は、東京淀橋教会で洗礼を受けていると言った。お寺さんには、葬儀を断られたと、よくよく話を聞くと、」亡くなった母はハンセン病が原因で、孤立している状態らしかった。葬儀は、つましいものだった。三人の兄弟と私たち夫婦、それに、」葬儀社の担当者だけだった。