イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月20日(木):手あつく葬ってあげなさい

先の日曜日、NHKの大河ドラマ徳川家康の場面で、信長の妹市が夫浅井長政の裏切りを知らされ、朝倉攻めのため出陣していた信長に急遽知らせるべく模索したが手立てがなく、困惑している様子を察知した、下女が自発的にその役目を担った、確か10里の道のりだったと思うが、野山を駆け抜け、ようやく、家康の陣にたどりつき、「浅井裏切り」の言葉を残して息絶えた。その時家康が言って言葉である。「手あつく葬ってあげなさい」。この言葉が妙に心に残っていたが、三日後に現実のことになるとは思わなかった。・・・・・

4月19日(水)福原兄を訪問した。昨年末以来会っていないので気になって出かけた。入り口は開いていた。ところが、10日前のイースターに届けたお弁当とイースターエッグが玄関先にそのままになっていた。いつもなら、お礼の電話があるはずなのだが、それがなかったので、再度訪問したのだが、不審に思い、家の中に入って行った。その奥の部屋で、仰向けに倒れ死んでいる彼を見つけた、死体は黒ずんでおり、一見して相当の日数が経っているようであった。察するに、先回の訪問時には既に死んでいたようである。そうとは知らず、弁当を置いたまま、外出中だろうと思い込み、帰ってしまっていたのだ。急遽、とって返し、地元の交番へ駈け込んだ、ここの駐在さんとは、面識がある。9日の訪問の時、私たちの跡をつけて来て、福原兄の自宅前で事情を聞かれた。「私は牧師で、彼は友人の信徒、時々見守りに来ている」旨を話すと納得し、警察でも彼を、見守っているとのことであった。駐在所には誰もいなかったがしばらく待つうちに奥さんが帰って来たので、急遽連絡を取ってもらった。あっと言う間に、本署から、数台の警察車両、消防署の車両が駆けつけた。村はずれの一軒家は、騒動になった。

・・・・思えば、彼が私の所を訪ねて来たのはおよそ10年前。「自分は若い頃、淀橋教会で洗礼を受けている。母が亡くなったので葬儀を行ってくれ」とのことだった。断る理由もないので、葬儀を行うことにした。葬儀は息子たち三人、葬儀社の担当者、それに私たち夫婦、計6人、まことにつましいものであった。それ以来、彼は年に何度か訪ねて來るようになった。秋になると自分の山でとれた柿をよく持って来た。自宅から教会までおよそ12キロはある。その山道を、リュックに柿を詰め、両手に買い物に柿を詰め、トコトコと歩いてくるのである。葬儀の時、彼はちえ子に、「母の死因はハンセン」と伝えたという、それでお寺さんもどこも、葬儀をしてくれなかったのだろう。確かに彼の家は孤立していた。両隣、土台のみを残して移転していた。近所付き合いはほとんどなかったようである。ハンセン病は、感染力の弱い病気であるが、この山里で未だに業病であることには変わりはない。らい病、レプラ、ツァラート、病名は変わっても人々の意識は変わらない。彼も遠慮してか、礼拝にはほとんど出ない。迎えに行くと出るが、共に食事をすることもなかった。・・・・・末の弟が昨年末亡くなっている、次男がいるが関東地方に住んでいる、連絡すると、電車賃がないので来れないとのことだった。行政が葬儀を仕切ることになった。それで今日の三時から火葬。遺骨はこちらであずかることで話し合いがついた。で、午後火葬に出かける。参列者は誰もいない、私たち二人だけ、今、ちえ子が白百合の花をアレンジして、している。

・・・・・・近くに遠縁の者が何人かいるらしいが、警察が連絡しても、「旅行に行く、仕事がある、あれこれ理由をつけて来ようとしない」。王から婚宴の招待を受けた者たちのように、拒んでいる。彼らがどうなるか、イエスが語っている。現場であれほどの騒がしさの中でも、隣近所、だれ一人、顔出さない。知らぬ存ぜぬ、関わり合いたくない。その一心でである。村八分と言えども、火事と葬式は除外されている。・・・・・・・人が死んでよかったな。と、思うことはないが、この度だけは、「福原兄」に「よかったな」と言いたい気持ちが強い。もう、いいよ。安らかに眠れしばらく淋しくなるが、これで良かった、と、思える。【手あつく葬ってやるよ】、私たちが生きているかぎり、墓参りはするから・・・・・・