「死後の生活」と言われていることの意味を短く述べると、それは、死において、信仰者が幸福に入り、不信仰者がみじめな状態に入る事である。死とよみがえりの間の状態は、復活と、裁きの後にくる状態と、程度が違っているいるに過ぎない。人間の運命を二つに分ける時は死である。しかし、一方の幸福と、他方のみじめさについては表現できない。・・・・・・・
第二コリント5;1・・・「わたしたちの住んでいる地上の幕屋こわれると、神からいただく建物、すなわち天にある人の手によらない永遠の家が備えてあることを、私たちは知っている」
8節・・・「むしろ肉体から離れて主と共に住むことが願わしいと思っている」
ルカ16章26節・・・「わたしとあなたがたの間には大きな淵がおいてあった」
死と復活の時期は、この地上で時間がはかられるような基準に従って数えられない。
ルターは、永遠の世界が時間の限界を越えていることを再々述べている。「神のみ前には、千年も一日のようであり、復活が来た時には、アダムと昔の先祖たちも半時間前まで生きていたかのごとく思えるであろう。」
ルターは、これを眠りの体験に比較している。「しばしば、わたしは眠りにおちいった時と目覚める時を観察しようと試みた。しかし、わたしが眠りにおちいる瞬間をとらえ得る前に、再び目覚めていた」
「聖書が、死後の生命についてほとんどしるしていないのは、我々が知った方が益になる以上のことが書かれていないということである。それゆえ、あまり想像をたくましくすることは、無用であるばかりか有害である。」
「ジェーコブズ著キリスト教教義学」