イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月12日(金):光あれ 榎本保朗

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『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』 この聖句は私の愛唱聖句の一つである。心が暗くなり、どうしようもなくなった時、私はよくこの聖句を口ずさむ。その時、もう一度神を仰ぎ、主にある平安と希望がわがうちに湧いてくる。私たちはこの世に生存しているゆえに、この世の支配を受けやすい。ガリラヤの海で弟子たちの乗っていた舟が激しい突風に出会った時があった。波が打ち込んできて、舟が波にのまれそうになった時、弟子たちは不安におののいていた。ところが同船していたイエスは、「ともの方で枕をして、眠っておられた」と記されいる。何故弟子たちは恐れ、主は平安であったのであろうか。その原因は、両者が受けていた支配が異なっていたからである。即ち、弟子たちは波に支配され、風に支配されていたのである。それに比べ、主イエスは海に向かって、「静まれ。黙れ」と語る事のできる神の言葉に支配されていたのである。 私たちもこの時の弟子たちのようにしばしばこの世に支配されることがある。しかし、「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従ってあるいているのではない」(Ⅱ:コリント10;3)と記されているように、信仰者とはこの世にあってこの世に属する者ではなく、肉にある者でありながら、肉に従って生きる者ではない。神の力、神の恵によって生きる者なのである。・・・・・・・

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だから、たとい今、自分のまわりがどんなに暗くても、神を信じる者は失望しない。なぜなら、彼らはそこに働く神の恵を信じているからである。

使徒パウロは「私たちを愛してくださったかたによって、私たちは、これらすべてのことにおいて勝ち得て余りがある」(ロマ書8:3)と告白している。私たちもその人生途上において、これらの事柄に出くわし、途方にくれることがある。行き詰まることがある。希望を失う時がある。しかし、どんなにと暗い時でも、神が「光あれ」と言われるとき、そこに光が創造されるのである。暗い時暗さの中に光を求めて歩くことは愚かである。「み言葉はわが足のともしび」という聖句がある。どんな暗さの中にも「光あれ」と言われる神の言葉を求めて生きることこそが大事である。このことを信じ、神を待つ者、神による勝利者とさせられたいものである。

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