私の母は、78歳で洗礼を受けました。津軽恩寵教会、小山正敏牧師より洗礼を受けました。60歳で父が亡くなり、その後新しく墓を建てた時、母はおろおろしていました。墓に十字架が刻んであったからである。親戚が集まる中で、小山先生に祈っていただくことが出来ないので、どうしようかと迷っていた。その時、小山先生は「皆さんと喧嘩するより、お寺さんにしていただきなさい。十字架の前ですから大丈夫です」。当日、その墓石の前で、和尚さんがお経を唱えるという、奇妙な風景がありました。数日後、母は洗礼を受けました。・・・・・
20歳で洗礼を受けた私は「イエス様を信じてよ」と言っていた。母はいつも、今は忙しいから、もう少し歳をとったら信じるからと、言っていた。70歳過ぎても元気で働いている母に少し焦りを覚えたが、待ち望んだ受洗の恵、感謝であった。・・・・
話は変わりますが、母の右頬に大きな傷跡があった。 幼い頃、間違って買い物をして来た娘に、厳格な父が傷を負わせたのである。 病院へも連れて行かれず、その傷は大きくなって残った。 嫁入り前の娘の頬の傷は母の心にも深い傷を残した。 この話をする度に、母は泣き、私も泣いた。 ・・・・・・・・
「母の生涯を見るとき、いつも苦しみの中を歩いてきたように思う。 ある時、リンゴ畑で一生懸命働いている母に尋ねた「悔しいとは思わないのか」母は言った。 「 元気で働けるのは感謝だ」と答えた。 そして、高校生の頃救われた姉がいつも歌っていた賛美歌を歌いながら、笑っていた。
♬主にすがる我に 悩みはなし 十字架のみもとに 荷をおろせば
歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ・・・・・
雪がちらついての中でのリンゴの収穫時、母の手は冷たいのかなと握ってみると、私の手は冷たかったが母の手は暖かかった。イエス様信じてよ、母の救いに焦りを覚えていた時、仕事をしながら歌っていた母の賛美、あの時、すでに母はイエス様を信じていたのではないか。この文章を書きながら、今はそんなことを考えている・・・・・
92歳で母は召された。亡くなる年前から話す言葉が聞き取れなくなっていた。三浦がいつも「お母さんのところへ行こう」と言って、よく実家へ連れて行ってくれた。そうして、母と共に賛美し、お祈りして帰ってくる。ある時、不思議なことを体験した。ほとんど聞きとれない言葉のうちに「アーメン」という「声」を聞いた。・・・・・
母の生涯は、本当に苦労の連続であったような気がする。でも、そこに神様の深い憐れみがあったように思える。今は亡き姉を通してイエス様が我が家に来てくださって、その姉の遺した子が神様の御用をしている。それを見るとき、母の存在が大きなものに見えて来る。この地上では休む暇なく働き通しの母でした。今は忙しかった二人がゆっくりと、語りあっていることでしょう。・・・・・・・
《だっちゃ》:どうにも不思議な言葉である。津軽地方にの方言にも存在しない、母のことを斎藤家では、《だっちゃ》と呼んでいる。その』由来は
誰も知らない。野里と言うその集落でさえ、どの家も、母のことを「だっちゃ」とは言わない。民俗学的に貴重なサンプルである《笑》