ザアカイは取税人のかしらで金持ちだったと記されています。人々は彼のことを「罪人」と呼んでいました。かなりあくどいことをして金をためたのでしょう。そんなことですからザアカイに友人と呼べるような人は誰もいませんでした。だれ一人彼の家を訪ねてくれる人はなかったのです。
ところがイエス様は、このザアカイに「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。何もかも知っておられたイエス様はザアカイの家に泊まろうと仰ったのです。それも「泊まることにしてある」と言われたのです。・・・・
「ザアカイ、お前が心をいれかえて、生まれ変わったなら、そうしたらお前の家に泊まってあげよるよ」と言われたのではないのです。「お前がどうあろうと私はお前を愛し、お前を受け入れているいるから、私はお前の所に泊まることに心を決めているんだよ」と言われたのです。・・・・
イエス様は、私たちが絶望の中にいるとき、その苦しみを御覧になって近づいて下さり、私たちの中にとどまってくださって、共に生きて下さり、共に苦しみ、共に喜んでくださったイエス様のことを考えたいのです。・
クリスマスと言うのはただ一日だけ、あるいは十字架までの30年余りだけ、イエス様はおられたのではないのです。あるいは私たちの生活の中でいうなら、信仰を持ったあの日、洗礼を受けたあの日、あるいは喜びに満ちて感謝をささげることができたあの時だけでないのです。苦しみの日に、喜びの日に、勝利の時も、あるいは罪を犯して打ちのめされたいる場合でも、主を信じる私たちの心の中にとどまり続けておられるのです。そのためにイエス様は来られたのです。人の子は失われた人を捜して救うために、そしてその人のところに留まるために来られたのです。
(羽鳥純二著:イエスと出会った人)より。