イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月19日(木):十字架の栄光

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偉人と言われる人々は、しばしば、その死によって自らの栄光を現わした。それは歴史の一つの偉大な事実である。彼らはどのような人間であったかは、彼らが死んだときに、また彼らがどのような死に方をしたかによって、人々に示されたのである。生きている間には彼らは誤解を受け、低く評価され、時には、有罪宣告を受けていたかも知れない。だが、彼らの死は彼らの高貴さと、道理にかなった彼らの正当な立場を現わしたのである。・・・・・・・

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奴隷たち

アブラハム・リンカーンにも、その在世時には幾人かの論敵があった。しかし、彼を批判し、彼を過小評価したそれらの人でさえ、彼の死を前にしてその偉大さを理解したのであった。暗殺者の一撃がリンカーンを撃ち殺した後に、彼の部屋から出来た一人の人が言った。「今や、彼はよろず世の者となった」と。リンカーンの陸軍長官であったスタントンは、いつもリンカーンを粗野で洗練されていない人間とみなし、侮蔑の感情を隠そうともしなかった人だが、リンカーンのなきがらを見下ろす目には涙があふれていた。「ここに横たわっているのは」と彼は言った。「かつて世界が出合った者の中で、人類の最大の指導者なのだ」と。・・・・・・・

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ジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルクは英国人によって、魔女、また異端者として火刑に処せられたが、その時群衆の中に、かつて、彼女の処刑の時には自分も火に薪をくべると誓った男がいた。しかし、彼はその場におよんで、「この女性の魂のあるところに、わたしの魂もあるように!」と叫んだのであった。英国王の側近の一人は、「我々は全て破れたのだ、一人の聖人を火あぶりにしてしまったのだから」とつぶやきながらジャンヌの火刑場を去った。

これ迄、幾度となく殉教者の尊厳は、その死において現わされてきた。

エスの場合もそれと同じであった。というのは、十字架の下にいた、百卒長でさえもが、「この人は真に神の子であった』(マタイ27章54節)

と言い残しているからである。『十字架』はイエスの栄光であった。なぜなら、イエスがその死に臨んだときほど威厳に満ちていたことはかつてなかったからである。『十字架』はイエスの栄光であった。何故なら、『十字架』の磁力は、イエスの生存がとてもなし得なかった仕方で、人々をイエスに引き付けたからである。そして、それは現在も続いている。・・・

エスを見つめるとき、十字架上試練を受けているイエスをみつめるとき、、私たちは言わざるを得ない。「あぁ、どんなにイエスは神を愛していたことであろう」と。イエスは十字架上で、完全な愛における完璧な

服従を表すことによって、神の栄光を表したのである。・・・・・・・

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しかし、ここにそれ以上のことがある。イエスは神に神の栄光、神御自身の栄光をあらわしてくれるように祈ったのである。『十字架』は終わりではなかった。『復活』がそれに続いた。十字架の恥辱は、神の子が世に来られて父のもとに帰る栄光の道であった。主イエスの復活は、私たちをその帰還の道を指示している・・・・・


       ・・・ヨハネ福音書18章28節・

フランス、オルレアンの少女は、イギリスの姦計によって、獄につながれた。獄吏たちは、極秘の資料によれば、ジャンヌを拷問し、いたぶり、凌辱したとある。主イエスの十字架といえども決して、これらに関わった者たちを赦しはしないであろう。この世にはこうして地獄に落ちる者たちもいる・・・・・それは、リンカーンを暗殺した者も同様であろう・・・

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 この世には、限りない罪の深さがある。主よ我らを、こころみにあわせず悪から救いたまえ・・・・・

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 追記:2021年6月3日(木);今日「ジャンヌ・ダルクの生涯」藤本ひとみ著を読み終える。いかに18歳の乙女が、国際政治に翻弄され、火刑にされたかが、記されている。1920年バチカンはジャンヌを聖人としたが、それで彼らの罪は消える訳ではあるまい。

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著者は「わが神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのではないかと締めくくっている