イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月25日(日):逆説を秘めた祝福

『そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母がわたしのところへ来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、なんと幸いなことでしょう。」(ルカ2章39~49)

この箇所は全体が、マリヤの祝福をうたった一種の抒情詩である。マリヤの生涯ほど、祝福を秘められた逆説性が見られるものはない。神の子の母となるという祝福がマリヤに授けられた。そのようにあまりに大きい特権に、いぶかりと驚きの喜びに満たされたことであろう。にもかかわらず、その祝福そのものが彼女の心を刺し貫く剣となるのだった。その栄光そのものが彼女の心をかきむしるのだった。彼女は祝福を受けた。ところがその祝福とは、いつの日か自分の息子が十字架に架けられる時がくる、という事を意味していた。神によって立てられるという事は、多くの場合、喜びの冠と悲しみの十字架の両方を意味しているものだ。神が人を立てるのは、安直な慰め個人的利害を貫徹させるためではない。全身全霊をそそいでなしとげねばならない重大な任務のためである。それは鋭い真理だ。神がある人を選ぶのは、その人を用いるためである。・・・・

 ジャンヌ・ダルクが余命いくばくもないことを知ったとき、こう祈った。「わたしの命はあと一年しかありません。でもできるだけ私を用いてください」と。それが実現される時、神に仕えることがもたらす悲しみや苦難は、もはや哀歌のごときものではない。それらは我々の栄光である。なぜなら、すべては神のためになされ、神のために苦しみを受けるのだから。リチャード・カメロンを捕らえた竜騎兵たちは、彼を殺害し、その美しい手を切り取って、本人であることを確認させるためにそれを父のもとに送った。「それは確かにわたしの息子、いとしい息子の手だ」と父は言った。「わたしとわたしの息子に悪をなされない神のみこころは、ほむべきかな」。人生の涙は、これもまた神のみこころなのだ。という思いによって喜びに変わる。・・・・・・・・

 スペインのある偉大な聖職者は、その民のために祈って言った。「神はあなたがたに平和を拒まれ、かくしてあなたがたに栄光を賜るように」。現代の有名な説教家は、「イエス・キリストが来られたのは、人生を安易にするためではなく、人々を偉大にするためだ」と言った。人に最も大きな喜びを授けると同時に最も大きな任務を授けるもの、それが祝福に秘められた逆説である。