イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月8日(土):満足ということ

【しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世にもって来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。】Ⅰテモテ6章6~8.

大昔、ギリシャの哲人たちは問題の核心を捕らえていた。エピクロスは自分自身についてこう語った。「小さなことに満足することを知らない者は、何にでも満足しない。わたしに大麦のケーキといっぱいの水をくれるなら、わたしはゼウスと幸福を競ってもよい」。またある者が幸福の秘密をたずねると、彼はこう答えたという。「自分の所有しているものに加えず、自分の願望を取り除け」。偉大な人々は常に小さなことに満足してきた。ユダヤ教のラビの教訓の中にこういうのがある。「金持ちとはだれのことか。自分のくじ(運命)に満足している者である。」。偉大な説教者、ラコロデールは言う。「現代の危険は小さなものに依って生きる術を知らないということです。古代の偉大な人々はたいてい貧乏でした・・・・神についても人についても、徳の美しさを認める心、これがどんなに外的な財によっても揺るがされることはありません。この時代が一番求めているものは、たとえ、すべてを持っているとしても、なお小さなことに満足できる人の姿です。わたしのことを申し上げて恐縮ですが、わたしは何も望みません。小さな家に偉大な魂、これが何にも増して私を夢中にさせてくれる理想なのです」。・

キリスト教は貧乏を奨励している訳ではない。貧乏である事自体徳ではない。また、生活の資を得るために絶えず戦わねばならないというのも幸福ではない。しかし、キリスト教は二つのことを弁護する。それは、幸福をもたらすのは物質の力ではないという叡智を弁護する。「多くの金持ちたちは、砂金で魂を窒息させた後で、憂鬱病で死んだ」。幸福は常に人間関係の中から生まれる。友情も愛も知らない者は、世界中のものを集めても幸福になれない。クリスチャンは知っている、幸福の秘密は物質ではなく人間にあることを。・・・・・

それは永遠に続くもの、死んでからも一緒の持って行けるものに専念することを弁護する。ギリシャンの詩人はうたった。「わたしは裸で地上に立った、わたしは裸で死の下に帰ろう」。スペインのことわざに「経帷子(きょうかたびら)にはポケットがない」。人間が持って行けるものは、二つだけである。自分自身と、ゆるがぬ信仰だけである。物質への隷属から解放されて、人々が友情と愛の関係に富を見いだすとき、また、われわれの最も貴い財宝はイエス・キリストによって与えられる神との和解であることを悟る時、真の満足がやって來るのである。(w・バークレー