イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月6日(土):パスカルと私(前田陽一)

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私が初めて「パンセ」を読んだのは、十七、八歳の頃である。それ以来、五十五歳になる今日にまで、濃淡の度はあれ、パスカルとなんらかの形で関係をもたなかった年は一年もないので、パスカル自身が物ごころついてから三十九歳の若さでこの世を去るまでと同じくらい長い間、パスカルとかかりあってきた勘定になる。昨年から、今の速度で進めば、あと二十年以上かかる予定の「パンセ」注解の仕事にとりかかり、これを私の老後の精神の支柱にしようと決めた所なので、私の寿命いかんによっては、パスカルよりも長い期間パスカルにかけることになりかねない。いくら天才と凡人の違いもあるといっても、三百年も前の他人、しかも外国人足跡を追うことに、一度しかない自分の一生の大半をささげるなどは、愚の骨頂だと思わないこともない。しかし、今となっては道を変えるには遅すぎる。また私なりに「それでいいのだ」という、まんざら負け惜しみだけでない理由付けを試みることもある。本書で初めてパスカルを読もうとする方々に、パスカルをご紹介する意味で、私がこれまでの間、パスカルを読み、また研究することにどういう生きがいを感じてきたかということを、思い出すまでに記してみたいと思う。・・・・・・

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以上。前田陽一師の「パンセ」序文を載せて見たが、ここにも人との学者の風貌というものがうかがわれる。ここにも、と書いたのは、以前、「キリスト教教義学」を著わした、ジェーコブズ博士の逸話を読み、「学者の風貌」というのを書いたことがある。その逸話を鍋谷莞爾教授が紹介している。・・・・・・

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「ある時、ジェーコブズ博士は、近所の散髪屋で散髪して貰ったが、翌日また、散髪屋へやって来た。店の者が、ジェーコブズ博士、何か御用ですか?。と尋ねると、散髪して貰いたい、と頼んだそうである。数日経って、今度は、かかりつけの銀行に行き、窓口に立っていたので係の者が、ジェーコブズ博士と尋ねると、散髪をしてもらいたい、と頼んだそうである。古きよき時代に、神学に没頭する学者の風貌をうかがわせる話であると。鍋谷教授が、自ら翻訳された「キリスト教教義学」のあとがきにこの出来事を載せているのである。前段の前田師もまた、同様であるように思える。・・・・・

私のもっている『パスカル瞑想録』はそのおくつけを見ると「昭和42年1月15日仙台」とある。23歳の時である。皆一様にこの厄介な本には長年悩まされるようだ。それだけに、得るものも大きいのかもしれない。

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2月5日(金):惜しみなく注ぐ愛

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最後の晩餐

ベタニヤでイエスに油を注ぎかけた話は、マタイの福音書のほかにマルコの福音書ヨハネ福音書にも書かれている。マルコの記録はマタイとほとんど同じであるが、ヨハネは、イエスに油を注いだ女はマルタとラザロの姉妹マリヤだと言っている。ルカはこの物語を記録していないが、パリサイ人シモンの家でイエスに油を注いだ話を載せている。(ルカ7:36~50)。しかしルカの福音書に出てくる、イエスの足に油をぬって髪の毛でふいた女は、罪人として知れわたっていた女であった。ルカが記すこの女と、マタイ、マルコ、ヨハネが記す女は同一人物であるかということについては、いまだに種々の論議がなされてきた。・・・・・

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いずれの場合も主人役はシモンであるが、ルカの福音書のシモンはパリサイ人で、マタイとマルコの福音書のシモンはらい病人である。ヨハネ福音書には主人役の名前が書かれていないが、文脈から察すると、マルタ、マリヤ、ラザロの家で起こったように思われる。シモンは平凡な名前で、新約聖書には少なくとも10人のシモンが出てくる。ルカの福音書に記されている女は名の知られた罪人であるが、ベタニヤのマリヤはそのような女だとは考えられないので、ルカの福音書と他の福音書に記されている女が同一人物であるとは思えない。しかし、マリヤがあれほど心を傾けてイエスを愛したのは、イエスによって罪の深みから救いだされたからかも知れない。そこで、ルカの福音書と他の福音書に記されている話が同一であると断定できないが、同一でないとも断定できない。それはともかくとして、この話はイエスが言われたように、美しく、しかもその中にいくつかの尊い真理が含まれている。・・・・・・・

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この女は、一番尊いものをイエスに注いだ。ユダヤの女は香油を非常に大事にした。多くの女は香油を入れた石膏の小さなつぼを首にかけていた。この香油は非常に高価で、マルコとヨハネ福音書では、弟子たちがこの香油を300デナリに売れると言っている。1デナリはおよそ労働者の一日の賃金に相当し、労働者の一年分の賃金に相当する。この女がイエスに注ぎかけた香油は、彼女の持っていたものの中で最も高価であり、高価であるゆえにイエスにささげたのである。愛は計算を度外視する。愛は体裁を保つための最小限のおくりものは何かなど考えない。愛は最大限に与え、すべてをあたえたあとで、なお足りなく思う。人の尊敬を失わない程度に、最小限にキリストと教会にささげるにはどうしたらよいかなどと考える者はクリスチャンということはできない。・・・・・

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普通に我々がこの話を読むとき、この女のしたことは、常識を超えているように思われる。当然弟子たちも憤慨した。8節にこう書かれている・・

「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができるのに」・・・・・・・

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常識が通用しない場合がある。常識の世界と、愛の世界とは非常に異なる。常識の世界は慎重さが支配し。愛の世界は心が支配する。この世ではたいていの場合常識が通用するが、時には愛の世界を満たすために愛の浪費が必要とする場合もある。容易に与えることの出来るものは本当のおくりものではない。犠牲を払い、自分の限界をはるかに越えたおくりものが真実のおくりものなのである。・・・・・・・

弟子たちは貧しい人々を助けたいと思っていた。ラビたちは、「貧しい人はいつでもいるから、よいことをする機会はいつでも神から与えられている」と言った。世の中には、何時でもできることと、たった一回しかできないことがある。もしこの一回の機会をのがせば、二度と同じ機会に巡り合わない。我々は何か親切をしたいと感じながら、それを実行しない場合が多い。一度のがすと同じ場合、同じ人、同じ時、同じ感動は再び戻っては来ない。多くの人は良いことをする機会を失ったために、人生を悲劇に終わらせている。・・・・・

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美しい行為は数が少ない。それだけにくらい世界に明るく輝く。イエスのご生涯の終幕は、憎悪、裏切り、陰謀、悲劇の連続であっただけに、この話は、暗さを増す闇の中で光のオアシスのように輝く。美しい行為を人の記憶に残して行くのは、尊い事である。(ウイリアムバークレー

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エスは言われた「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこでででも、この福音が述べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られて、

この人の記念となるでしょう」イエスのこの言葉は今の時代に残されている。世界中で多分、二千年を経た今日も、どこかでこの女のしたことが、語られているだろう。そして、マリヤにならい多くの女性たちが、今なお同じ心をもって、主に仕えていることも事実である。この美しい物語は永遠に語りつがれる。主の、お言葉の通りに・・・・・・

下世話な話になるが、ここ二日三日、森元首相の女性に関する発言が、やり玉に上がっている曰く「女の多い委員会は、時間がかかる云々・・・」

という発言に猛反発の女性たち。しかし、多分。森さんのいうことはもっともなことも事実である。あのマリヤは、一言も言葉を発していない。しかし、彼女の名は燦然と輝いている。

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厳しい寒さも峠をこえた。今日は比較的暖かかった。猫のアルが、私のベッドに粗相をした。ちえこが叱りつけると。奴はニャンとも口をきかない。意地比べが始まって、双方口をきかない。冷戦がおよそ一日続いた。

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雪景色もそろそろ、終わりころ・・・・朝のマルの散歩30分。他うちに籠りっぱなし。この頃あいつ、寝言を言う。

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なんか音楽でも聴きたい気分・・小屋にほっぽってあるステレオ出してみるか。

 

 

2月3日(水):瞑想録 パンセ

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★・・二種の人々があるだけである。一は、自分が罪人だと思っている義人、他は、自分を義人だと思っている罪人。【534】

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★・・ひとりの人を聖徒 にするには、恩寵というものがぜひとも必要である。それを疑う人は、聖徒のなんであるかも、人間の何であるかも知らない人である。【508】

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★・・各人は自分のように神をつくる。【258】

★・・わずかなことがわれわれをなぐさめるのは、わずかなことがわれわれをなやますからである。【136】

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★・・自分の悲惨さを知らずに神を知ることは、高慢うみだす。神を知らずに自分の悲惨さを知ることは、絶望をうみだす。イエス・キリストを知ることは中間をとらせる。なぜなら、かれにおいてわれわれは神とわれわれの悲惨とを見いだすからである。【527】

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★・・『もしおまえが自分の罪を知ったならば、おまえは気をうしなうことであろう』・・・「そしたら、主よ、わたしは気をうしなうでありましょう。わたしはあなたの証言によって、わたしの罪は邪悪だと思うからです」・・・『気をうしなってはならない。なぜなら、おまえにそれを知らせるわたしはおまえをいやすことができるからである。またわたしがおまえにそれを告げるのは、わたしがおまえをいやそうとしているしるしである』【553】

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★・・(従順)あまりに従順だというの理由で、人々を責めなければならに場合も、まれではない。それは、不信仰と同様に、自然な悪徳であり、しかも有害である。【254】

★・・(信仰)真のキリスト者は少ないと、信仰についてさえ、わたしは言う。信じている人々は多いが、迷信によってである。信じていない人々も多いが、わがままによってである。両者のあいだにある者は少ない。

【256】

★・・(回心)人はしばしば自分の想像を心情ととりちがえる。そして、

回心しようと考えるやいなや、回心したと信じ込む。【275】

★・・(むなしさ)この世の空しさを悟らない人は、その人自身がむなしいのだ。【164】

★・・(栄誉)栄誉の魅力はたいしたもので、それがついているものなら、死さえも、人は好む。【158】

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パスカルの瞑想録を読んだのは、随分昔になるが、いまだに全部は読み切れていない。天才の思考にはなかなかついて行けず、辛うじて理解できるいくつかの、断章を載せてみた。これまで、パスカルに関することは、4月22日、聖なるいばらの奇跡、7月1日、いとなみはとぎれたままに、と他に二回載せてきた。

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意外と厳しい事書いてあるのね・・昔も今もおんなじさ・・あたし無理・・その無理をみんな気付かないのさ,俺もね。

 

2月2日(火):モニカの祈り

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「シーッ、母さんが目を覚ますよ。またお説教くらうのはごめんだからね」

父と息子は、そうっと忍び足で、ローマ風の家に入った。だが、そんな努力にもかかわらず、彼らの足音を母は聞いていたのである。母モニカは、それまでにも、放蕩に夜を過ごしていた夫のために、幾度となく傷ついていたのである。ところがその傷はもっと深くなってなっていた。というのも17歳になったばかりの息子のアウレリウスが、父親と一緒になって飲めや歌えの大騒ぎするようになっていたからである。アウレリウスは涙ぐむ母を可哀そうだと思う心はあったが、「僕らは楽しんだだけなのに」と言うのだった。・・・・・

それから一年後、アウレリウスは私生児をもうけた。しかも、その子を生んだ女とは結婚しないまま十三年も過ごしたので、モニカの心は千々に乱れた。父が死んだ頃、アウレリウスの不行跡は本格的になった。それでもなおモニカは息子のために祈り続けた。やがて、アウレリウスは教師となり、北アフリカカルタゴに自分で学校を開いた。当時、教育はたいてい家庭か、集会所を借りて行われていて、生徒から集めた授業料で教師の給料や学校の経費は賄われていた。アフリカでは大都市であるカルタゴにの銀行街にあったその学校は繁栄した。生徒たちは町の貴族の子弟が多かった。いつの日にか、これらの生徒たちが政府の指導者になるだろうと、ひそかに考えたりした。彼らはアウレリウスのことを覚えていて、うまい職にありつけるようにしてくれるだろう。すべては順調に思われた。・・・

そうした折もおり、アウレリウスの学校は略奪部隊に破壊されてしまったのである。この恐ろしい事件におびえて、彼はアフリカから逃げ出した。

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そして、ローマに学校を開設した。そこは安全なように思われたからである。そこには、マニ教と呼ばれる偽キリスト教のグループがあった。アウレリウスはマニ教に関心を示し、マニ教を研究するようになった。このマニ教というのは聖書とギリシャ哲学を奇妙に混合したものであった。しかし、有名なマニ教の教師であるファストゥスと話し合ってからは、彼は幻滅を感じるようになった。人間は安っぽい広告屋以外の何者でもないと、アウレリウスは断定した。そこで過去九年間にわたって、抱いてきた信念を捨ててしまったのである。・・・・・・

ローマに着いてから一年後に、政府は彼をミラノの修辞学の教授に任命した。彼は、母親を招き、一緒に暮らすことにした。母はそのときまでずうっと息子の回心のために祈り続けていたのである。・・・・・・

ミラノで彼は献身的クリスチャン指導者で、その町の有力な市民であった主教アンブロシウスに歓迎された。「私の説教を聞きにおいでなさい」とこの有名な説教者は、彼を招いたのだった。最初アウレリウスはあまり乗り気ではなかったが、それでも聞きに行った。ところがその洗練された話しぶりは、何とも言えない快いものであった。

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ある日、アンブロシウスはダビデ王について説教した。「ダビデが罪を犯したのは、人間的なことだが、それをっ悔い改めたのは例外的なことです。人々は、ダビデが罪を犯すところまではついて行きます。しかし、彼が罪を告白し、悔い改めるとなると離れてしまうのです」・・・聞いているうちに、過去の不道徳な生活がアウレリウスを悩まし始めた。ダビデのように彼は罪を犯した。だが悔い改めていなかったのだ。こうして自分の罪への呵責が強まるにつれて、彼のキリスト教に対する疑問はくずれはじめた。遂に、彼は聖書が神の霊感によるものであり、イエスが神の子であると心からいうことが出来た。それにもかかわらず、まだ彼のうちにある罪深い情欲は、不道徳な生活を続けていたのである。彼の飢えた魂は、その罪と格闘していた。とうとうある日、彼は園の中に入り、いちじくの木の下に身を投げ出して叫んだ「おお、主よ、今この時を、自分の卑劣さの終わりとしてください!」

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その瞬間、園の外で「取って読め!。取って読め!」という子供の何度も歌う声を聞いた。アウレリウスが下を見るとすると彼が少し前に残しておいたローマ人への手紙があった。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みの生活ではなく・・・主イエスキリストを着なさい」という箇所が目にとまった。喜びに満たされたアウレリウスは親友アウレビウスにその箇所を示し「私はキリストを着たのだ。私の心は平安に満たされているんだ」と言った。そして彼は母モニカのところへ急いだ。この時こそ、母の長年の祈りが答えられたのであった。やがて主教アウレリウスにより洗礼を受けた。アウレリウス・アゥグスチヌス教授は、四十四間の実り多い年月をキリストの奉仕のために過ごした。その間、彼は七十冊のキリスト教の書物を書いた。その一つに「聖アウグスチヌスの告白」は、文書の専門家たちにより、あらゆる時代を通じて偉大な本に数え上げられている。その「告白」は神にあてて書かれたもので、その中にある「あなたは私たちをお造りになりました。私たちの心はあなたの中に休らうまでは安んじないのです」ということばは、しばしば引用されるところである。・・・・・アウグスチヌスは、ローマが野蛮人の手に落ちてから、しばらくして紀元430年に、平安のうちにこの世を去った。しかし、彼の霊的影響力と教えは、

暗黒の時代を通して、生き続けた。そして、ルターやカルヴィンのような宗教改革の指導者をも励まして、腐敗したキリスト教界の聖職者位階制に、反旗を翻させることになったのである。・・・・・・

イタリアの園で「キリストを着た」異国の教授アウレリウスは、今日も多くの教会史家によって、使徒パウロ以来最も有力なクリスチャンとして覚えられている。 

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これでやっとローマ時代は終わり?・・やっと終えた・・頑張ったね・・うん、うん、