「シーッ、母さんが目を覚ますよ。またお説教くらうのはごめんだからね」
父と息子は、そうっと忍び足で、ローマ風の家に入った。だが、そんな努力にもかかわらず、彼らの足音を母は聞いていたのである。母モニカは、それまでにも、放蕩に夜を過ごしていた夫のために、幾度となく傷ついていたのである。ところがその傷はもっと深くなってなっていた。というのも17歳になったばかりの息子のアウレリウスが、父親と一緒になって飲めや歌えの大騒ぎするようになっていたからである。アウレリウスは涙ぐむ母を可哀そうだと思う心はあったが、「僕らは楽しんだだけなのに」と言うのだった。・・・・・
それから一年後、アウレリウスは私生児をもうけた。しかも、その子を生んだ女とは結婚しないまま十三年も過ごしたので、モニカの心は千々に乱れた。父が死んだ頃、アウレリウスの不行跡は本格的になった。それでもなおモニカは息子のために祈り続けた。やがて、アウレリウスは教師となり、北アフリカのカルタゴに自分で学校を開いた。当時、教育はたいてい家庭か、集会所を借りて行われていて、生徒から集めた授業料で教師の給料や学校の経費は賄われていた。アフリカでは大都市であるカルタゴにの銀行街にあったその学校は繁栄した。生徒たちは町の貴族の子弟が多かった。いつの日にか、これらの生徒たちが政府の指導者になるだろうと、ひそかに考えたりした。彼らはアウレリウスのことを覚えていて、うまい職にありつけるようにしてくれるだろう。すべては順調に思われた。・・・
そうした折もおり、アウレリウスの学校は略奪部隊に破壊されてしまったのである。この恐ろしい事件におびえて、彼はアフリカから逃げ出した。
そして、ローマに学校を開設した。そこは安全なように思われたからである。そこには、マニ教と呼ばれる偽キリスト教のグループがあった。アウレリウスはマニ教に関心を示し、マニ教を研究するようになった。このマニ教というのは聖書とギリシャ哲学を奇妙に混合したものであった。しかし、有名なマニ教の教師であるファストゥスと話し合ってからは、彼は幻滅を感じるようになった。人間は安っぽい広告屋以外の何者でもないと、アウレリウスは断定した。そこで過去九年間にわたって、抱いてきた信念を捨ててしまったのである。・・・・・・
ローマに着いてから一年後に、政府は彼をミラノの修辞学の教授に任命した。彼は、母親を招き、一緒に暮らすことにした。母はそのときまでずうっと息子の回心のために祈り続けていたのである。・・・・・・
ミラノで彼は献身的クリスチャン指導者で、その町の有力な市民であった主教アンブロシウスに歓迎された。「私の説教を聞きにおいでなさい」とこの有名な説教者は、彼を招いたのだった。最初アウレリウスはあまり乗り気ではなかったが、それでも聞きに行った。ところがその洗練された話しぶりは、何とも言えない快いものであった。
ある日、アンブロシウスはダビデ王について説教した。「ダビデが罪を犯したのは、人間的なことだが、それをっ悔い改めたのは例外的なことです。人々は、ダビデが罪を犯すところまではついて行きます。しかし、彼が罪を告白し、悔い改めるとなると離れてしまうのです」・・・聞いているうちに、過去の不道徳な生活がアウレリウスを悩まし始めた。ダビデのように彼は罪を犯した。だが悔い改めていなかったのだ。こうして自分の罪への呵責が強まるにつれて、彼のキリスト教に対する疑問はくずれはじめた。遂に、彼は聖書が神の霊感によるものであり、イエスが神の子であると心からいうことが出来た。それにもかかわらず、まだ彼のうちにある罪深い情欲は、不道徳な生活を続けていたのである。彼の飢えた魂は、その罪と格闘していた。とうとうある日、彼は園の中に入り、いちじくの木の下に身を投げ出して叫んだ「おお、主よ、今この時を、自分の卑劣さの終わりとしてください!」
その瞬間、園の外で「取って読め!。取って読め!」という子供の何度も歌う声を聞いた。アウレリウスが下を見るとすると彼が少し前に残しておいたローマ人への手紙があった。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みの生活ではなく・・・主イエスキリストを着なさい」という箇所が目にとまった。喜びに満たされたアウレリウスは親友アウレビウスにその箇所を示し「私はキリストを着たのだ。私の心は平安に満たされているんだ」と言った。そして彼は母モニカのところへ急いだ。この時こそ、母の長年の祈りが答えられたのであった。やがて主教アウレリウスにより洗礼を受けた。アウレリウス・アゥグスチヌス教授は、四十四間の実り多い年月をキリストの奉仕のために過ごした。その間、彼は七十冊のキリスト教の書物を書いた。その一つに「聖アウグスチヌスの告白」は、文書の専門家たちにより、あらゆる時代を通じて偉大な本に数え上げられている。その「告白」は神にあてて書かれたもので、その中にある「あなたは私たちをお造りになりました。私たちの心はあなたの中に休らうまでは安んじないのです」ということばは、しばしば引用されるところである。・・・・・アウグスチヌスは、ローマが野蛮人の手に落ちてから、しばらくして紀元430年に、平安のうちにこの世を去った。しかし、彼の霊的影響力と教えは、
暗黒の時代を通して、生き続けた。そして、ルターやカルヴィンのような宗教改革の指導者をも励まして、腐敗したキリスト教界の聖職者位階制に、反旗を翻させることになったのである。・・・・・・
イタリアの園で「キリストを着た」異国の教授アウレリウスは、今日も多くの教会史家によって、使徒パウロ以来最も有力なクリスチャンとして覚えられている。