イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月4日(日):砂漠の隠遁者 テレマックス

保存しておくことで失われ、使用することで保たれるものがある。人が持っている才能はそのようなものである。もし、用いればもっと大きなものに成長するが、用いなければついに失ってしまう。特に、人生というものはそのようなものである。・・・・

歴史を見ると、自分の命を投げ出したことによって永遠の命を獲得した人々の例が溢るほどある。4世紀の末ころ、東方にテレマックスと言う修道僧がいた。彼は世俗を離れ、、ただ一人、祈りと瞑想と断食をし、それによって魂を救おうと決心した。そして、彼の孤独な生活の中で、彼は神との交わり以外何も求めなかった。しかし、とにかく、何か、間違っていると感じた。ある日、祈りを終えた後で立ち上がった時、自分の生活は無私にもとづくものではなく、神に対する利己的な愛に基づいていることを、突然はっきり認識した。もし、神に仕えようとしているなら、人々に仕えなければならない。それなら荒野はクリスチャンの生活する場所ではない。それは生活の場所、人々が溢れている都市なのだ。都市には罪が溢れており、それゆえにこそ、多くの助けを必要としているのだと。それで彼は、荒野に別れを告げる決心をし、地球の反対側にある世界最大の都市、ローマへ向かって出発した。・・・・・・・

彼は物乞いをしながら陸や海を越えローマへ至った。この時ローマは公式にキリスト教国となっていた。当時のローマは前時代と異なり、群衆はキリスト教会に集まった。しかし、キリスト教的ローマにも前時代的なことが一つ残っていた。ローマにはまだ闘技場があり、そこではまだ剣士の競技が行われていた。当時はもう、クリスチャン達がライオンの中に投げ込まれたりすることはなかったが、戦争で捕らえられてきた者たちは、ローマの大衆を休日の娯楽として、戦わされていた。・・・・・・・・

テレマックスは闘技場にたどりついた。そこには八万の群衆が集まっていた。戦車の競争が終りかけていた。そして剣士たちが戦いの準備をしていたので、群衆の間には一種の緊張がみなぎっていた、剣士たちは、挨拶をしながら競技場に入って来た。「カイザル万歳、われらまさに死なんとする者たちが挨拶をおくる」と。・・・・・

戦いが始まった。テレマックスはぞっとさせられた。キリストは彼らのためにも死なれたのに、彼らはクリスチャンであると主張する人々を楽しませるために互いに殺し合おうとしている。彼は柵を飛び越えた。彼は剣士たちの間に立った。すると一瞬彼らは立ち止まった。「競技を続けよ」と、群衆は叫んだ。彼らは老人を押しのけた。しかし、老人は剣士たちの間にわって入った。群衆は彼に石を投げつけた。群衆は剣士たちに、老人を殺し邪魔を取り除け、と叫んだ。競技の指揮官が命令を下した。一人の剣士が剣を振りかざし、老人を倒した。そして、テレマックスは死んで横たわった。すると、突然群衆は静寂にかえった。人々は聖なる人がそのような方法で殺されたことに突然衝撃を受けた。全く突然、この殺人が何であったかについて、大衆に覚醒が起った。その日、競技は打ち切られた。そして、ローマで以後二度とこの競技は行われなかった。ギボン(英、1737~94,歴史家)が言っているように、「彼の死は、彼が生きている事よりも、人類のために有効であった」。彼は命を失うことによって、荒野の孤独な瞑想の中で生き延びるよりも多くのことをなしたのであった。

今日は二年前に亡くなった、マルの命日。