イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月18日(火):故障中

 

 

故障中、修理を頼んでいる。しばらくかかりそう。心配無用。ゆっくりしている。毎日アクセスあるが、感謝。関連記事が読めるなら読んでおいてください。今年はいつになく雪が多い、朝、ちえ子と雪かき、良い運動になる。アルもルカも元気、今日は小屋のストーブに火を入れてのんびりしている。二年近く、夢中で、ブログを書いてきたので、主がおやすみを下さったのだろう。ハレルヤ、アーメン。

 

 

1月12日(水):ヨハネの黙示録について

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説教者の王C・H・スポルジョンはある時、批評家から聖書について難問を投げかけられた。その人は、得々とこう尋ねた。「ところで、ここのところはどういう意味かね。」スポルジョンは、いつものようにまばたきをすると、こう答えた。「どうという事はありませんよ。そこに書いてある通りの意味ですから」。よく公の集会の後などに熱心な人がやって来て、純粋な気持ちから「ヨハネの黙示録の意味するところは何ですか」などと聞くことがある。その時には、先の答えがいかに適切であるかが分かる。と同時に、こう答えるのも賢いと思う。「答えは一言で言えます。つまり『答えを出すのには百年かかる』」 また、「啓示」というと言うこの書が一番難解な書であるという事実は、何となく合点がいかない。こういう気持ちが私たちの心の中にある。けれども、この書は暗く閉ざされたもの、即ち、ギリシャ語のタイトルが示すような「黙示」「包み隠す」とはおよそ違ったものである。 この書が一番やさしい書の一つだと言ったら、正気の沙汰でないと思うだろう。けれども、事実は そうなのである。だからと言って、この書の象徴的表現(意図的に難解にしているものも多い)の 全部を解く事ができると言っているのではない。そんな事のできる人はいない。けれども、全体の 意義と使信は、誰にも分かるものである。・・・・

シドロー・バクスターのえらく面倒な文を紹介したが、この書を読んで私の理解できる箇所はたった一つ、「マラナタ」「主よ来たりませ」だけである。それで十分と思っている。

 

1月11日(火):祈り

f:id:dotadotayocchan:20200328094203j:plainもしイエスという方が私たちと対等くらいにの本当にちっぽけな方で、その方のことを書いていても、「世界」はおろか私の貧相な書斎でも収まるという程度のものであれば、一年、二年、三年で卒業したという事になるでしょう。しかし、イエスという方は、知り尽くせません。私たちは卒業したと言ってはならないのです。たとえ、スランプに陥っても、たとい疑いが起こっても、それは、まだ知り尽くしていないからです。もっと長く、ずっと信仰し続けるなら、汲めど尽きぬ泉がこの方にはある。これを福音書の読者に注意したいのです。・・・

どうか、私たちが、このような豊かな知恵と知識を隠し持っておられるお方の胸に、一層近く寄りかかりまして、この方について私が今だ悟れていない味と言いますか、私がまだ今の段階では味わっていない味わいというものを、また新しく味わわせていただくことによって、いつまでも、証し、殉教の度を続けて参りたい、と願うのであります。

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・・・・・祈りましょう・・・・・

すべての造られた物の造り主であり、生きとし生ける者の命の源であり、知恵と知識の源であり光であり、そのような無限の富を持ち給うにもかかわらず、己をを低くして私どものために世に下り、十字架にかかり、私どもの贖いとなってくださった、愛しまつる主イエスよ。

あなたが、私どもにご自身の一端を示し、限りない愛のひとふしを明らかに示してくださいまして、『わたしに従ってきなさい』と召してくださいますことを、心から感謝いたします。・・・・・・

どうぞ、私どもが、自分に求められております、生涯たえざる求道と信仰の旅を、脇目もふらず続けることに、いよいよ豊かに主イエスの恵を汲み。いよいよ忠実に主の証人となり、生くるも死ぬるも主のものとして、殉教者の歩みを、生涯忠実に歩み通すことができる者と、

ならしめてください。・・・・・・

私どもの心に、時として起こりくるところの疑いや、あるいは不信の思いを、あなたが取り除いて下さいますように、乞い願い奉ります。自分自身と他人を見るのではなくて、無限の富を給う主イエス・キリスト、あなたを見つめて、主に従い行く者と、ならしめてください。

・・・・・・アーメン・・・・・・

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(榊原康夫著:ヨハネ福音書の講解;最終章の祈り)

1月9日(日):ピレモンへの手紙

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パウロの牧会書簡といわれるものの最後に小さな私信がある。かつて、パウロを通して救いに与ったピレモンという人への個人的手紙である。ここでパウロは信じられないほどの低姿勢である。大方の手紙は、使徒パウロとその権威を打ち出すのだが、特にガラテヤ書においては、のっけから、「使徒となったパウロ」とほぼ喧嘩腰であるのに、この手紙ではひどくやわらかである。1節~7節までは、挨拶文だが随分、ピレモンを持ち上げている。いわば、歯の浮くような語り口である。それもそのはず、パウロは重大な頼みごとをかつての同労者にしなければならなかったからである。それは、8節から19節まで記されているように、逃亡奴隷「オネシモ」に関する頼み事である。オネシモは、以前ピレモンの奴隷であったっが、主人に損害を与え、逃亡し、どういう経緯かパウロと出会いキリスト者になった。多分、その回心がほんものであったがゆえに、パウロをして、「獄中で生んだわが子オネシモ」言わしめたのであろう。当時の世相として、逃亡奴隷が捕縛された場合、ほとんど命の保証は得られない。主人は奴隷にたいしては、「生殺与奪」の権利を持っていた。当時の社会は奴隷を使役することで成り立っていたし、ローマ帝国全体で、六千万人の奴隷がいたと言われている。その奴隷たちが反乱を起こすことに帝国は細心の注意をはらっていたことは当然である。反抗的な奴隷は即刻殺された。・・・・・・

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そんな社会状況の中で、パウロははたして、オネシモをピレモンへ送り返すのに、不安であったことは容易に察せられる。この書簡にはそうしたパウロの心情がにじみ出ている。「むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっているパウロ」(9節)と書いている。半面、さりげなく、「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが」とことわりがきも記している。使徒パウロとして、あなた命じることもできるのだが、ここは、年老いて、囚人の身である私に免じて願いを聞き届けて欲しいと懇願しているのである。実にパウロという人は、見事な説得をしている。硬軟入り混じった、如才のない、パウロという使徒の面目躍如というところである。・・・・

『そうです。兄弟よ。私は主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください』(私はあなたに貸しがある、それを今返してほしいのです)と言っているようである。

『それにまた、私の宿を用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところへ行けるものと思っています』。囚人のパウロが、ピレモンのところへ出かけられるはずがないのに、敢えて、この一行を付け加えているのは何故か。

それは、パウロのピレモンに対する、「ダメ押し」とも考えられる。あなたのもとに返したオネシモがどのように扱われた確認に行くよ。あなたがオネシモに罰をあたえたなら、私がそちらへ行って、あなたを罰する。・・・・・・・・・

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この小さな書簡から50年後。「神を宿す者」と言われた、アンテオケのイグナチウスが、ローマへ曳かれていく途中、そしてその殉教の途上で、七通の書簡を書き表しているが、その中に「エペソの高名な監督オネシモ」という名前があるという。オネシモは50年後そういう者になっていたのだろう。また、パウロの書簡集を編纂したのも彼だと言われている。彼は、かつて自分が逃亡奴隷であったことを隠しもせず。この貴重な手紙を「聖書」の中に残した。

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1月7日(金):肝だめし

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昨日、T姉妹から電話があって、退職届を出したという。19年間ご苦労様でした。パワハラ社長もすんなりと受け入れたようで、もめ事が起こらず安堵している。あの娘は意外に気が小さいので、どうなることかと、案じていたが、「あんずるよりうむがやすし」である。ここまでは一人で決断しなければならなかった。これから先は、私たちもお手伝いする。・・・・・

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年始の挨拶に息子夫婦が孫さん連れてやってきた。嫁さんがよくできた人で、祐二も昔は考えられないほど、成長した。面構えが違ってきた。20歳になった時に、余りにも素行が悪いので、「勘当」したのだが、奴は全く「意」に介さないようで、父さん。母さん、と呼ぶ。戸籍上はもう他人なのだが、そのノー天気ぶりが奴のいいところなのだろう。ホラも吹いて行った。従業員11人ばかり使って年商、8000万だという。ちえ子も私もあの悪たれ息子に、いつの間に追い抜かれてしまった。お昼時にさしかかったので、みんなで街のレストランで食事をして別れた。・・・・・

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毎年どういうわけか、フグを贈ってくれる。今年はフグの刺身で、きれいにお盆に載った刺身はおいしく頂いた。去年はフグの鍋物で、ちえ子と二人で鍋を囲んだものの、どちらが先に箸をつけるか、睨みあった。私は用を思い出したと言って、中座したが、帰ってきても鍋はそのままだった。お互い「命根性が汚い」ようで、おいそれとは箸をつける気にならない。フグ毒にあたってもしようがないか、と意を決するまでに時間はかかったが、「肝」を据えてごちそうになった。そして、まだ生きている。・・・・・

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東京に雪が降った。おおよそ毎年関東地方に大雪が降ると、東北に春が来る。しかし、今回は少し早かった。2月か、3月だと確実に、秋田に冬の終わりを告げる。「よい知らせ」なのだが、もう一波乱ありそうだ。それでも、ここ2~3日は晴天続きで、助かっている。

春よ来い

早く来い

歩き始めた

みいちゃんが

おんもヘ出たいと

待っている。

16日には、下田牧師夫妻の、六戸(ろくのへ)での開拓伝道の出発式を行われるとのこと、出席は出来ないけれど、4月になったら訪ねて見たい。百子夫人の健康が守られるように、腎移植している身だ。主の守りがあるように、朝毎に祈っている。

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1月6日(木):ハタ ハタ

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秋田民謡にも歌われているハタ・ハタのことである。深海魚で12月~1月のこの時期にだけ、秋田県沿岸に産卵のために接岸する。ウロコのない珍しい魚である。律法ではウロコのない魚はた食べてはならない事になっているが、幸い、秋田には律法学者がいないので、おいしく頂いている。ハタ、ハタ屋さんが毎年やって來る。どういう風に気が合ったのか、毎年その人だけから買う。他からは買わない。そうすると、ハタハタがあがったという、テレビのニュースが流れると、翌日真っ先に我家へ届けに来てくれる。今は昔の物語になってしまったが、近年ハタハタの不漁が続いている、もう何年も彼女の姿を見ていない。元気でいればいいのだが。・・・・・・

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2012年の特製の恩寵教会のカレンダーが、9月に届いた。いつもの年だと、10月の末頃品物が届き、11月頃代金を振り込むのだが、????。と思いながら合点した。あの大震災で、後藤勘助の会社も暇なのだろうと、察しられた。米沢市にある。即日代金を振り込むように会計係に指示した。たかが数万円であるが、こんな小さな注文にも毎年律儀に訪ねて来てくれる、後藤勘助社長へのせめてもの「おもい」である。

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アメリカのディーラーの社長が車が売れなくなって、困窮していた。友人の日本のディーラーの社長にその窮状を電話すると、電話の向こうで、日本の社長はこう言った「あなたが良いと思う分だけ車を送ってください、全部引き受けます」。1200台の車が送られてきた。日本の社長は全部売った。アメリカの社長は、生涯忘れられことであった。と語っていた。大切な人との絆である。

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