イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月17日(水):スティグマタ 聖痕

パウロは、「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びている」と述べた。

このステイグマタは、常に人々を魅惑してきた。アッシジのフランシスコについて言われることであるが、彼は、ある時寂しい山頂にじっと座っていた。フランチェスコにはその時、地平線上全体に広がる十字架に架けられた愛の神を見たように思えた。それを見ていると、彼の心は悲しみと憐れみの剣で刺し通されてしまった。その幻影は次第に消えて行き、フランチェスコは我に返った。人々の伝えるところによれば、その時フランシスコが見下ろすと、彼の両手に釘の跡がしるされており、生涯その印は消えることはなかったという。この話が真実であるか、伝説あるかは断言することはできない。この世界には、私たちの平凡な哲学が夢想する以上の事柄が存在するからである。パウロは、主と共に十字架につけられた経験を、あまりにも如実に体験したために、パウロもまた、その手に釘跡を帯びることになった、と考える人々もいる。

パウロの聖痕についてはいささか飛躍があるが。フランチェスコの聖痕については、あまりにも有名であるので、否定しがたい面もある。

あら、まぁ~。二か月ぶりの更新ね。スミマセン、怠けています。

11月24日(金):記事の検索について

このブログはおよそ、3年余にわたり800数十の記事が書かれている。ま、読むに耐えぬものもあるが、中には参考になるものもある。パソコンでこれを読みには簡単だが、スマホでは、全部読み切ることはできない。そこで、スマホでアクセスする人は、検索欄を利用して欲しい。記事の後半に必ず四角い箱があって、検索とある。その中に、語句を入れれば、その語句に関する記事が、表示される。例えば、記事検索の四角い箱の中に、ルター。パウロ。殉教。葉子。など、思いつくまま、入力するとそれついて書いた記事が、表示される仕組みになっている。因みに、お勧め記事は。ニムロデ。聖徳太子、ガゥディ、等々。

11月14日(火):インドの詩人タゴール詩

神は各人に課題を与えられる。その課題は、全ての人に知られ、歴史に書き留められるようなものであるかも知れない。あるいは、誰の耳にも入らないようなものであるかも知れない。しかし、いずれにせよ、それは神の課題である。タゴールは次のような詩を書いている。

真夜中に、自称隠者が口を開いた。

「わが家を捨てて、神を求める時がきた。

あぁ、いったい誰がこの妄想の中に、

かくも長い間、わたしを閉じ込めていたのか」。

神はささやかれた、【わたしである】。

しかし、男の耳は閉ざされていた。

胸に安らう赤子を抱いて、彼の妻は、

寝床の反対側で、安らかに眠る。

男は言った、「かくも長い間、わたしを愚かにさせたあなたは一体誰なのか」。

再び声は言った。【神である】。

しかし、男はその声を聞かなかった。

夢を見た赤子は大声で泣き、その母親にぴたりと寄り添った。

神は命じて言われた。【愚か者よ、止めよ。あなたの家庭を捨ててはならない】。

しかし、男には、なお聞こえなかった。

神はため息をついて、つぶやかれた。

【なにゆえ、わたしの僕は、わたしをたずねて、わたしの故にさまよい歩くのか】

 

たとい卑しい課題であっても、それは「使徒の」尊い任務である。

 

 

 

11月13日(月):イエスと天使ガブリエルの対話


この伝説はすぐれて真理を完璧に要約したものである。

エスが地上の時を終えられて、天に帰られた後の様子を伝えている。天においてさえ、イエスは苦難としるしをおびておられた。天使長ガブリエルが言った。「主よ、あなたは下界の人間たちのために、ひどく苦しまれたことでしょうね」。「その通りでした」とイエスは答えられた。するとガブリエルは言った。「それでは、人間たちはみんなあなたが自分たちをどれほど愛され、自分たちのために何をされたか、よくわかったでしょうね」。「いや、そうじゃない」とイエスは言われた。「まだ分かっていない。今はパレスチナにいるほんのわずかな人々だけが分かっているだけだ」。ガブリエルは言った。「すべての人にそれをわからせるために、一体、あなたは何をしてこられましたか」。「わたしは、ペテロやヤコブヨハネや他に数人の人々に、わたしについて他の人々に、わたしについて他の人々に伝えることを生涯の仕事とするように依頼した。他の人々はさらに別の人々に伝え、しかもまた別の人々は最も遠隔な地にいる最も広範囲な圏内にいる人々が、わたしのしたことが知るようになるまで伝えていくであろう」。・・・・ガブリエルは、非常に疑わしそうな様子であった。彼には、あの哀れな弟子たちが皆逃げ去っていたことを知っていたからである。「そうですか、ペテロ、ヤコブヨハネが疲れ切ってきたらどうするのです。彼らの後に続く者が忘れ去ってしまったどうするのです。時代が下って二十世紀の人々が、あなたのことを伝えなかったらどうするのです。あなたは何か他に計画でもお立てになっておられるのですか」。

そこで、イエスは、答えて言わた。

【わたしは他に計画はありません。わたしはかれらを当てにしています】

 

11月2日(木):慰安旅行

昨日日帰り旅行に行って来た。7月に亡くなった公夫兄弟の奥さんの柳姉妹もだいぶ落ち着いてきたので、気晴らしにと思い誘った。最初は、田沢湖にある芸術村を予定していたが、お芝居や、ミュウージカルより、女たちが林檎を食べたいを言い出し、3対1の多数決で、青森に行くことになった。私たち夫婦、高坂柳姉妹、晴美姉妹の4名、私の車出かけたで出かけた。

津軽平野の紅葉を見ながら、岩木さんの懐、嶽温泉。温泉は硫黄の香りだけにして鯵ヶ沢へ向かう。

何年振りかに日本海を眺める。

この地で人気者の秋田犬まさおにご挨拶、やや機嫌が悪かった。

岩木さんの回りを一周して、五所川原へ、ここには、巨大な立佞武多の舘がある、地上からの高さ23メートル、4,5階くらいの建物の中に、納まっている。圧巻。

最期は、ELMと言う巨大ショッピングモールで、お買い物。お昼、一人2千円の定食。

帰りがけに、恩寵教会初穂、最初の受洗者、斎藤文雄兄(ちえこの実兄)の墓前礼拝。北秋田に着いたのは午後6時、夕食をして解散。楽しかった。




 




 

10月31日(火):アンンソニ・デ・メロ

イエズス会司祭 「心の泉」

何ものをも拒否するな。何ものにもしがみつくな。

新約聖書の中に、使徒パウルがコリントに人々に宛てた第一の手紙の中に、「愛の章」13章とよばれ広く信徒に親しまれている御言葉がある。【愛は寛容であり、愛は情け深い、また妬むことをしない】この章句を諳んじている人も少なくない、聖書の中でも深く人々を慰めて来たことばである。・・・・上の司祭様の言葉は、つきつめてみると、「愛の章」にたどりつくような気がする。愛はすべてしのび、すべてを信じ、すべてをのぞみ、すべてを耐える」。愛はいつまでも絶えることがない。・・・・・

喧騒な時代、あらゆるものが錯綜した目まぐるしい社会になって来た。これだけの運動量がなければ、世の中はない立たないものなのかと思ってしまう。【清貧】と言う言葉がもうずっと昔にあった「死語」のように思えて来る。キリストにならいて生きて行くのが、キリスト者にもむつかしく思えて来る。この世の何処かに、言い知れぬ、はかり知れぬ深い断層があるように思われる。そのような虞をを感じる。

 

10月30日(月):サプリメント

このところ、朝服用するサプリメントが増えて来た。昔から飲んでいるものは、アリナミン。これは40年近く飲んでいるが副作用が少ない。それによく効く。若い頃は2,3錠飲んだだけで、直ぐに効き目が実感できた、しかし、何事も「限界効用逓減の法則」があって年と共に薄れてきている。10年ほど前からは兄の勧めで、サントリーセサミンと言うのを併せ呑んでいる。これも同様。今朝、その他の栄養剤、等をつらつらと並べてみると、まずは、リポビタン、黒酢、はちみつ、黒ニンニク、煮干し、アミエビ、

ゴマ。等々。これらを朝全部飲み食いするわけではないだ、その朝の気分に合わせて二三種類摂るようにしているが、何となく情けないような気がして来る。秦の始皇帝が配下の者に命じて不老長寿の薬を探して来いと命じた、故事が思い出される。・・・・

今朝、ふっと気がついたのだが、どんなに体に栄養素を、強壮剤を送り込んでも、元々の体が貧弱であれば、何の効き目もないのだと気づかされしまった。元々、弱った貧弱な脚に、どんなに栄養を送り込んでも、強い脚にはならないということである。脚を鍛えつつ栄養を送り込んでこそ、サプリメントも役に立つであろうが、・・・・・・

脚を見ると随分昔と違い、割りばしが二本ついているような状態、これではどうにもならない。ルカを連れて散歩でもするか・・・・・・