
『この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。』(ヨハネ20章30~32節)。
福音書が書き下ろされた当初、それがこの節で終わっていたことは極めて明らかなことである。ここで終わるのが極めて自然であり、あとに続く21章は、付加ないしは追想とみなされる。他の全ての福音書の中で、この箇所ほど福音書の目的を手短に要約している箇所はない。・・・・・・・・
1・・・福音書はイエスの生涯を完全に記述しようとしていないし、また記述したとも主張していない。それは明らかなことだ。それは日々刻々、イエスの後を辿っている訳ではない。それはイエスの言葉や行為の完全な記録ではなくて、彼がどのようなお方だったかを示す典型的な出来事や、彼がいつも行っていたような行為を選んで記述しているのである。・・・・・・・・
2・・・さらに福音書はイエスの伝記を意図したものではなく、イエスを救い主として、師として受け入れるように訴えたものであることは、明らかである。その目的は情報を与えることではなくて、生命を与えることであった。その目的は、読者をして、このように語り、教え、働き、癒やすことのできた人は、メシアであり神の子に他ならない、と言うことを悟らしめ、また、そのような信仰の中に真の生命の秘密を見いだせるようなイエス像を描き出すことであった。・・・・・・
3・・・私たちが福音書を歴史的または伝記として扱うならば、全く誤った心構えでそれを読んでいることになる。私たちは何よりもまず、歴史的情報を探る歴史家としてでなく、神を求める人間としてそれを読まなければならない。

今日の礼拝に德子さん出席、ご主人は仕事らしい、一緒に来られればよかったのだが残念、来週は、ビクター一家との合同礼拝、紹介するので、来週もおいで、と言ったら来ますとのことだった。