イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月13日(日):心の貧しい人

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『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから』

・・・・・・・・・・マタイの福音書5章3節・・・・・・・・・・・

エスのこのお言葉について考えるとき、まず初めに気付かなければならないことは、今、現在のことについて語っておられるのだといことである。今の今、「さいわいなるかな、クリスチャンよ。ああ、キリストに従う喜びよ。おお、イエス・キリストを師、救い主、主と信じる者のたぐいなき喜びよ!」こうした至福の教えは、クリスチャン生活のあふれる感激と喜びをあらわしている。そこには、憂鬱なクリスチャンなどありえないのである。・・・・・・

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それでは「心の貧しい人」とはどういう人を指しているのであろうか。

貧しい人に関する記述は、詩篇の中だけでも25箇所以上記されている。

「主は、・・・貧しい者の叫びをお忘れにならない」詩篇:9章12節

「貧しい者は決して忘れられない」同18節

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いて下さいました」10章17節

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これらは、詩篇のみならず聖書のあらゆる箇所で述べられていて、これらの貧しい人とは、ことごとく、「神にたよっている貧しい、無力な人を人」を意味している。そこから導き出される結論は、「自分が無力であることを知って、ただひたすら神により頼む人はさいわいである」と言うことに尽きる。このことは、現代の社会においても同様である。裕福な人は

の多くは、神を求めようとはしない。神は、ご自身を必要とされる者たちの神である。求めようとしない者の所へ、わざわざお出かけにはならない。ただ、ここで留意しておかなければならないことは「貧乏」を祝福しているのではないということである。貧民街に住み、食物にも事欠く人たち、健康を害ししている人たちを幸いとは、思われない、むしろそうした人たちの「貧困」を取り除くことがキリストの真の福音であることには変わりはない。『富める者はその富の故に傲慢になり、貧しい者はその貧しさの故に卑屈になる』そのいずれも主の喜ばれることではない・・・・

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今日の礼拝は、全員揃い、新しい人も先週から来ている。昼の食事は前ほど豪華?ではないが、恩寵教会ならではの、楽しい交わりがある。順子ちゃんが今朝もお花を持って来て、講壇を飾ってくれた。柳さんは、得意のケーキ。使徒信条の中に、「聖徒の交わり」という一項がある。そうした豊かな交わりが無ければ、真に召された者の教会とは言い難い。ネット礼拝とやらにのみ頼っている人は悲しい。

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人の輪こそが教会なのだと思う