イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月8日(金):決断の時

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随分昔の話になるが、国鉄(今のJR)に勤めていた人のことだが、奥さんはクリスチャンで、その人はまだ洗礼を受けていなかった。家庭集会を持っても一緒に牧師の話を聴いたりするが、洗礼は受けようとはしなかった。いつかその理由を聞いてみた。現職にある間は、洗礼は受けられない。なぜかと言うと、いざ列車事故があった時、クリスチャンの良心に従って、何もかも正直に話せない場合があるからだという。多分、そういう事例をいくつか見、また経験していたからであろう。国鉄の運転手は、口が裂けても、「居眠りしていました。信号を見落としました」とは言えないのである。私はなるほどなと、変に感心してその話を聞いていたが、実はこの人は「決断」することを怖れているのだと感じた。・・・・・

結局その人は、国鉄を退職しても、洗礼を受けなかった。パール・バックはその大地という小説の中で、信仰に入るには、どうしても飛び越えなければならない深淵が横たわっている。と述べている。命を懸ける決断のない人は、イエスにまみえることは、むつかしい事なのかもしれない。もとより、私たちの勇気によって救われるのではないけれど、・・・・・

『自分のいのちを救おうとする思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです』ルカの福音書9章24節。

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