イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月15日(土):イエスの証人

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『あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしするのである』(ヨハネ15:27)

今の時代、イエスの証人であるために、生命の危険にされされたり、土地や財産を没収されるということはない。一言でいえば現在私たちは迫害ということをほとんど経験しません。この地上の教会にも平和な時代と戦争の時代とがあるということができます。・・・・・

それでは、今日キリストの証人であるためには、何の犠牲も払わなくてよいのでしょうか。キリストの側に立つためには、ある犠牲を払わなければならないということはいつの時代にでも、どこの国においてもあることです。この世には十字架に対する侮辱とキリストに対する非難というものがあります。自然のままの人間は、生命と密接な関係をもつキリスト教を、本能的に毛嫌いします。そしてこの反感は、侮蔑、嘲笑、冒涜、侮辱、誹謗、敵意の形をとってあらわれるのです。・・・・・・・

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次に宗教的ではあるけれど改心していない人々は、真のキリスト者にはある種の敵意と憎悪をもって接するものです。そして、キリスト教が人々の心に働くのをみて誇張的、狂信的だと批判します。また彼らの意見によると、キリスト教信者は、他の者たちよりも良い人間であるかのように見せかけているというのです。・・・・・・・

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これらの人たちは、改心した者と、しない者との相違は頑固な迷信家と異説を入れない者との相違に匹敵すると断言しています。そしてキリスト者が神の言葉について妥協を拒否して、人々の反対に屈せずこれを宣べ伝える時は、キリスト者は論争的であるとか傲慢であると非難します。・・・

そうです。キリストの証人になるためには、ある犠牲を払わなければならないことは当然のことです。今日イエスは、イエスとイエスの信者に反抗する者たちのただ中に、私たちが証人として立つことを命じておられます。私たちがキリストに対する非難攻撃を忍んで受ける心を持っている限り、私たちは証人として立つために必要な能力を聖霊によって与えられることを、イエスは約束して下さっています。

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今日からしばらく、朝のデボーションに『みことばの糧』O・ハレスビーを用いることにする。一年の日課があり、文章も割と平易、日々の瞑想のために書かれてある。

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FBでいろいろあったけど、本来の自分戻るよ・・だから言ったじゃないの・・