30代の初め頃本荘市で会社勤めをしていたが、かなり退屈な日々を過ごしていた。そんな折、新聞か何かで市内のお寺で人形劇団が活動している
事を知って、ちょっと覗いてみるかと出かけてみた。本堂の側に手頃な建物があって、舞台を造り結構本格的な、100人ばかりは入れる劇場になっていた。十人ばかりの部員が日曜ごとに集まって、稽古をしていた。出しものは「小僧と鬼婆」だった。妙なことに、私は結構歓迎された。住職見習のリーダーは、目が早くて、人形使いにはならないが、裏方なら使えると見込んだようだった。そんなことで、仲間に加えてもらった。工業高校電気科卒業が役にたった。照明器具やら、小道具さんをやらされた。
まぁ、私の若い頃の一番楽しい時期だったかもしれない。そう言えば、
「小僧」さん役をやっていたのが、後にルーテルの伝道師になった速水悦子さんだった。上手かったねぇ~。いっとき、鷹巣の教会で奉仕していた。恩寵教会にも一度くらい尋ねて来たことはあるが、今のところ消息は分からない。・・・・・・
「小僧と鬼婆」は母親たちや子供たちに人気があったが、そろそろ別の出し物を検討しなければならなかった。私は、「影絵」の手法で「杜子春」はどうかと提案してみたが、いざ検討をしてみると、難問が多すぎた。
芥川龍之介の短編小説であらすじとしては・・・・・
中国洛陽の都に、杜子春という若者がいた。金持ちの息子で親の遺産で遊び暮らしていたが、それも使い果たし今は乞食同然になっていた。そんな彼の前に不思議な老人が現れた。そして「この場所を掘るように」と言って立ち去った。
杜子春が掘りかえしてみると、荷車一台分の金塊が埋まっていた。たちまち彼は大富豪になる。しかし、放蕩の限りを尽くしその財産も3年もするとまた元の一文無しになってしまった。そこへまたあの老人が現れ、彼は大富豪になる。そんなことを三度繰り返した時、彼は気づいた。金持ちの時はみんなちやほやするが、一文無しになればみんな手のひらを返したように冷たくあしらわれる。人間というものに愛想をつかした杜子春は、あの老人が仙人であることに気付く。
老人は確かに自分は仙人であることを明かし、彼を自分の住む山へ連れて行く。そして、仙人になりたいという杜子春に「無言の行」を命じる。自分が帰るまで、何があっても絶対に声を発してはならないと言って立ち去った。杜子春は、そこで試練に合う。
虎や大蛇、地獄の責め苦も味わうが彼は耐えて言葉を発しなかった。怒った閻魔大王は畜生道に落ちていた彼の両親を連れて来させ、滅多打ちにし始めた。初めは無言を通していたのだが、母親が杜子春に言った。
「わが子よ、わたしは構わないから、声を出してはいけないよ・・」と。
その母親の愛情に泣きながら「お母さん」と杜子春は呼んでいた。
すべてが夢の出来事であった。夢から覚めた杜子春に仙人は言った。
『もしあの時、お前がお母さんと呼ばなかったら、お前を殺していた』
仙人は彼に山の麓に一軒の家と畑を与えて立ち去った・・・・・・
(一軒の小さな家と畑、それが一番の人の幸せなのだろう)
☆ ☆ ☆
その頃あちこちで「親子劇場」というのが流行していた。合川町には猿倉芝居という伝統芸能もあった。いずれにせよ、緩やかな今よりずっと心豊かな時代だったかなと思っている。杜子春の上演はかなわなかったけれど。リーダーは帰郷していた私のところで、総員で押し掛けるからと、便りをもらったが、牧師の反対で実現すことが出来なかった。今でも悔やまれることの一つである。その代わり、私たちが主催して、日本一のプロの人形劇団プークを本荘市に招いて、公演出来たことは忘れえぬ快挙でもあった。それに結構「儲かった」当時のお金で120万円、エヘン、エヘン!と言いたい。
外の冬支度も今日で大方片付いた。しかし明日の礼拝説教の準備がまだだ。あぁ~、困った牧師と可哀そうな信徒たち。主よ許されよ。明日朝から頑張る・・・・・