イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月2日(水):不寛容な時代

f:id:dotadotayocchan:20210328144525j:plain

毎朝、北欧の杜を、ちえ子と犬のマルと三人で、ウオーキングしている。

帰りがけに、草むらに紫の小さな花が咲いていた。ちえ子が日曜の礼拝に飾りたいと言うので車を止めて、数本摘んだ。そこへ男の人が通りかかって、ちえ子を叱りつけた。これは公園の敷地内にはえているものだ、それを取るとはけしからんと言うのであった。理屈はそうだろう。しかし、精神異常者のように語気が荒かった。「盗人」「警察に訴える」「名前を言え」「車のナンバーを控えた」等々。他人の庭先の花を積んだわけではない。鉢植えの花をとったわけではない、東京ドーム数個分の広さのある公園に無数に生えている花の数本を、摘んだに過ぎない。理屈や道理からすれば彼の方が正しいのかも知れない。もう野の花一本も、摘むことの出来ない社会になってしまったのか。どんな花でもどこかの誰かに土地に咲いている。フキやキノコ山菜などは、みんな自由に取っている。今は古語のようになったけれど、山も、川も、海も、入会権と言う不文律がある。

不寛容な時代になったとつくづく思う。あの摘まれた花は、そのまま、明日にはひからびているだろう。その男はその花には見向きもせずに立ち去った。あの花は、日曜日に講壇の傍で、小さく誇るはずだったのに、むなしく枯れてしまった。その男は花の命を無意味に散らした。曽野綾子が言っていた戦後の教育の歪んだ一面を見てしまった。

f:id:dotadotayocchan:20210320124412j:plain