『天の御国は、からし種のようなものです。それを取って畑に蒔くと、どんな種より小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります』
マタイの福音書13章31~32節・・・・・
改革は一人の人によって始められる。キリスト教史の中で最も感動的な事件はテレマックスに関するものである。彼は砂漠に隠遁者の生活をしていたが、・・なにものか・・それは神の召しであった・・に促されて、ローマへ行った。
その頃ローマは一応キリスト教の都市になってはいたが、なお剣闘が行われていた。剣士が戦って血を流すのを、群衆が熱狂して声援を送っていた。テレマックスは競技場へ急いだ。そこには八万の観衆でうずまっていた。彼は戦慄した。こうして殺し合っている人たちもまた神の子ではないか。彼は席を蹴って競技場の中央に進み、剣士の間に割って入った。彼はすぐに放り出されが、しかしもう一度また再び帰って来た。群衆は怒り、彼に石をを投げた。彼はあえぎながらもう一度剣士の間に立った。長官の命令が鳴り響いた。剣が日光にきらめいた。テレマックスは死体となって横たわった。一瞬、満場が静まり返った。やがて群衆は何が起こったかを知った。聖人が殺されてしまったのである。その日、ローマに何かが起こった。そして、その日から、剣闘が消え去った・・・・・・
一人の隠遁者はその死によって何かを放ち、それによってローマ帝国の罪をきよめた。誰かが改革を始めなければならない。必ずしも一国の改革でなくてもよい。誰かが毎日、家庭で、職場で改新を起こすことが出来る。
その改新は、一度始められると止まる事を知らない。・・・・・
この譬話はイエスが話されたものの中で最も個人的なものの一つである。イエスの弟子は時には絶望したに違いない。弟子の数はあまりにも少なく、この世はあまりにも広い。どうしてこの弟子たちが、この世をキリストに導いて変えることが出来るであろうか。しかし、イエスが来られた時、この世に何かが起こった。ある学者が次のように伝えている。「神学的偏見を持たない歴史家ならば、ナザレから起こった無一文の教師を第一に考慮しないでは、人類の進歩を正確に描くことは出来ない」・・・・・・・
この譬話の中で、イエスは当時の弟子たちに、また、今日の弟子たちに語りかけられる「気を落とすことなく、それぞれの場所で仕え、また証しなさい。あなた方の一人一人は何かを始めることは出来る。それはたとえ小さくとも、そこから神の国は広がり、遂に地上のすべての国が神の国となるであろう」と。
小さき群れよ
汝は少なく、力弱けれど
汝の将軍の勢いたけし
いくさの君の足下に
もろびとすべて打ち伏すまで
W・バークレの著書より引用。
今朝は時計を見間違えて3時に起きた。(ちょく、ちょくやる)戻ってまた寝るのも癪なので、あれこれ調べものをして、結局睡眠時間は3時間。
それで、いつものように朝食を済ませてから、木材を片付け1時間、あとは一日中寝ていた。こういう日があっても主は、お叱りにはならないだろう。ちえ子は、買い物、買い物と騒いでいたが、耳が遠くなってきた・・
そう言えば、昔、鷲津メリーさんから、小さなからし種をいただいたことがあった。種子は何処かへいったが、きれいな自作の扇子が今も講壇の上に飾られている。