イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月15日(金):ペテロに伝えなさい

 

エスのなきがらに最後の処置をする時間がなかった。安息日が中に入ったので、なきがらに油を塗りたいと思った婦人たちは、そうっすることが出来なかった。間もなく安息日が終わったので、出来るだけ早く彼女たちはその仕事にとりかかった。彼女たちには一つの心配があった。墓には扉がなかった。扉と言う語が用いられているときは、それは入り口のことである。入り口の前には溝が通っていた。そして、その溝には車の車輪のような大きな円形の石があった。婦人たちは、そのような石を自分たちの力で動かせないことを知っていた。しかし、彼女たちが墓に来た時には、石が転がされていた。そしてその墓の中には使者がいた。彼は、彼女たちに、イエスは死よりよみがえったという信じがたいニュースを知らせた。

・・・一つの確かなこと・・・

f:id:dotadotayocchan:20200701144507j:plain
エスが死よりよみがえられなかったなら、我々は決してイエスのことを聞かなかったであろう。婦人たちは、なきがらに最後の愛情のしるしを与えるために来たのである。弟子たちの態度は、すべて悲劇に終わってしまったという態度である。復活の断然すぐれた証明は、キリスト教教会の存在である。悲しみ、失望している男や女たちを、喜びと勇気の燃える輝かしい人々に変え得るものは他にはない。復活は、キリスト教信仰全体の中心的な事実である。我々が復活を信じるとき、次のことを考えなばならない。第一に、イエスは書物の中の一人物ではない。イエスは生きている臨在である。我々が、他の歴史上の人物を研究するように、イエスの物語を研究するだけでは十分ではない。我々は、そのように始めてもよいかも知れないが、彼に出会うことにまで至らなければならない。・・・・・

 

・・・イエスは思い出ではない・・・

エスは臨在である。思い出は、最も大切な思い出でも色あせていく。

ギリシャ人が持っている、時を記述する言葉に「それは時はすべてを拭い去ってしまう」と言う意味があるという。イエスが永遠に我々と共に生きる臨在でなければ、はるか前に、時がイエスの思い出を拭い去ってしまったであろう。・・・・・・・

 

あたたかい、やさしい、親切、

今なお、彼は現存する助けである。

・・・・・

そして、愛はガリラヤを持っている。

 

「イエスは我々が議論するかたではなく、我々が出合うかたである」

       (マルコの福音書16章1節~8節)

 

おだやかな日が続いている。その後雪も小康状態を保っている。このままという訳にはいかないだろうが、早合点かも知れないが、このまま春を迎えれるかな。そうだといいけど。今度の雪で、敷地内の不備が目立った。

朝、祈りの家に行くのに。膝まで埋まるような状態である。冬用の簡単な通路を造ろうとしていたが、油断した。・・・・・・