イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月16日(木):ルルドとは一体何だろう

 

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聖ベルナデッタ

 

それは何よりも出会いの場所である。世界のあらゆる所から、様々な信仰を持った人が来て、みんながそれぞれの思い上がりを剥奪され、苦悩を胸に抱いて裸にされる。ここでは人前で泣いても構わない。泣いても恥ではない。苦しみを自慢するものもいない。本物の涙なのだから。・・・

そこでは胸の内を自由に吐き出してよく、自分の弱さをさらけ出せる。すべてが可能なのだ。他人からあれこれ言われることもなく、病む人たちをじろじろ見られることもなく、他の人たちと同じになる。大いなる手によって人の違いがぼかさ人々はれ、人々をつなぐ力が高揚される。・・・・

ルルドはすべての人を受け入れて、大きな包容力で包み込む。人々は握手し、抱き合い、挨拶し、慰撫し合い、それぞれの人の歴史を分け合う。そして、互いに祈り合う。・・・・・

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ルルドはまた人々が触れ合うことを勧める。身体と身体が軽くふれあうことさえ厭われる現代社会で、ルルドは手こそが素晴らしい発見の道具であることを再認識させる。手は現実を読み、感情や戦慄、震え、驚愕、温み、不安を感じ取る。手はお互いを元気づけ支え合う。手が古代から治療の道具であったことは偶然ではない。例えばマッサージは、人にふれることによって身体と対話し、苦痛を和らげ、心地よさを伝えるのである。この接触によって、人はエネルギーと感情を交感する。それは人の世話をするというポジテブな感情である。人の世話をするのは他でもないひとである。こう考えると、ルルドは、医学が人と人との関係、接触、傾聴の上に成り立っていることを再認識させてくれる。余りにも器機や器具により頼んでいる今日の医学は、医学を患者から遠ざけ、両者の間の溝を作っている。・・・・・・

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ルルドはまた、科学と宗教、科学と信仰の出会いの場所である。両者は互いに照らし合わせるものの、論争はしない。懐疑的であっても、お互いに堅く信じあっている。人々はルルドで、治るのを希望するだけではない。苦悩を受け入れ、それと戦い、ついには共存することに成功すのである。

確かにルルドは、今日流行の機械や器具に頼った医療とは次元を異にする

世界である。医療従事者が医学検証で登録する時も、大きな台帳に手書きしなければならない。電子カルテでない。

私はここで笑えない笑い話をしなければならない。【ある高齢の患者が受診する度に、主治医は電子カルテのモニターから目を離さず、検査データを確かめ、一切こちらを見ない。業を煮やした患者がついに「先生、たまには胸を聴診してください」と言ったら、すると主治医は「そうだね」と言って、右手に持っていたマウスを患者の胸に当てたのだ。・・・・・

まさしくルルドでは、「人の病の最良の薬は人である」(セネガルの格言)が実践されている。医療人はルルドに来て、自分の拠って立つ原点を取り戻すのだ。・・・・・

ルルド医学検証所とルルド国際医学評議会は、いわば純粋に「からだ」の疾患を扱開い、「こころ」を最大限排除する役割を持つ。しかし、その冷徹な態度こそが、逆に医学と信仰を結び付け、「からだと」と「こころ」を融合させるのである。

本書を執筆した2018年は、ルルドのベルナデッタに聖母マリアが出現してから160年にあたる。

「信仰と医学」(聖地ルルドをめぐる省察)著者

HAHAKIGI HOSEI 角川書店。最終章より抜粋。

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