イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月24日(日):わたしは常に主をわたしの前に置く

私たちは毎日の生活ではたして主をどこに置いているだろうか。これは信仰上非常に大切な問題なのである。前なのか、後ろなのか、あるいは足の下か、上の方にか、横に置いているのか。その一つ一つについて考えてみたい。

「後ろに置く」・・・・それはいつも自分が先で、自分の為に神があり、神は自分を助けて下さる方に過ぎない。だから、「私はこれをしたいのです。神様どうぞ、そうさせてください。と呼びかけるだけの信仰になってしまう。

「上に置く」・・・・それは神を奉ってしまうことである。そして本当に私たちの生活のまんまん中に主を迎えようとしない。だから信仰は言葉だけ、思いだけになってしまう、実際の生活とは少しもかかわらない事になってしまう。従って、家庭あるいは職場といった日常生活の場においては、牧師と言っても人間なんだから、あるいはクリスチャンと言ってもやはり人間なんだからという事で、信仰がごまかされてしまい、神は単に教会で礼拝するだけのかたになってしまう。しかしながら、その反対に日常生活の中に埋没してしまうような「下に置く」信仰になってしまわないようにすることも大切である。

もう一つの「横に置く」・・・・これは相対的な世界の中で神を考えていく行き方で、これでは、いつまで経っても信仰は与えられない。だがこの主人公は「常に主をわたしの前に置く」と言っている。この「前に置く」とは私を導くかた、私の従うべきかたとすることであり、同時に自分は後ろ下がるという事なのである。

マルコ伝に「イエスが舟に乗っておられるまま」とあるが、「イエスを舟に乗せたまま」であることに注意したい。なぜなら、私たちは主イエスを舟に乗せることはするが、主イエスが舟に乗っている状態になりにくいからである。だが信仰とは、私たちの舟に主イエスをお乗せすることではなくて、主イエスが私たちの舟の舟頭になられて舵を握られることなのである。

常に主イエスが主であり、私たちは従っていく者であることを覚え、「主を前に置く」

信仰生活をすることが大事なのである。それゆえに私の心は楽しみ、たましいは喜び、私の身は安らかなのである。

主を前に置く時、私たちは「いのちの道」を示される(11節)のである。考えてみればこれほど大きな喜びはない。本当に一生懸命に歩いていて歩いていて、その道を知らないほどむなしいものはない。それにひきかえ、私たちは「いのちの道」を示されているのである。私の一歩は前進の一歩であり、決して無意味な一歩ではない。何が前進なのか後退なのか定かでなくなり、そういう意味でしきりに生きがいを求められている現状の中で、「いのちの道」を示されている幸いを覚え、日々歩んでいく者でありたい。

・・・・榎本保朗師:一日一章詩篇16章8節講解・・・・