イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月16日(金):羊飼いと天使

神の最初の告知が羊飼いたちに与えられたという事は素晴らしいことだ。羊飼いは、当時いわゆる善男善女からは軽蔑されていた人々である。羊飼いが祭儀律法の一点一画まで守る事は、全く不可能なことであった。彼らは手を洗う事や、その他こまごまとした規則を遵守することはできなかった。彼らは、羊の群れを見張っていなければならないという制約があった。だから、正統派をもって自らを任じる者は、彼らをくだらぬ人間と見下していた。・・・・・・

ところが神の使信はまず最初に、野にいる単純な人たちにもたらされたのである。ただしこれらの羊飼いは、多分特別な羊飼いだったろう。既に述べたように、神殿では、朝と夕べに傷のない子羊が犠牲としてささげられた。完全で傷のない供え物がすみやかに手に入るように、神殿当局は自分たちの手で羊を所有していた。これらの羊の群れが、ベツレヒムの近くで牧されていたことは知られている。これらの羊飼いが、神殿用の羊を託されていたという事はきわめてありそうなことである。神殿用の子羊を世話していた羊飼いが、世の罪を取り除く《神の子羊》に最初にお目にかかった・・・それは、いかにも美しい考えではないか。・・・・・・・・

 子供が生まれるとその地方の楽師がその家に集まって来て、簡単な曲を奏でて挨拶をするのだった。イエスはベツレヒムの馬小屋で生まれた。だからそのような行事は模様されなかった。天の吟遊詩人たちが地上の吟遊詩人たちに代わり、天使たちが、地上の楽師たちではうたう事のできない歌をイエスのために歌った・・・・それはいかにも美しい考えではないか。・・・・・・

このように読んでくると、われわれは、神の子の誕生が簡素なものであったということに思い馳せざるを得ない。神の子が生まれるとするば、それは宮殿や豪華な邸宅であろうと考えるのが人情だろう。あるヨーロッパの君主は、自分の宮廷生活を苦にして、しばしば蒸発し、お忍びの姿で民衆の間に潜伏した。危険だから止めて欲しいと進言されると、「民衆の生活を知らなくてはわたしは彼らを治めることができない」と答えたという。私たちの神は、私たちの生活を知っておられる神である。なぜなら、神もまた私たちと同じ生活をされ、しかも、何の優越性も主張されなかったからである。このことはキリスト教信仰の中で特に銘記すべき思想である。(ルカ2章8~20)

(W・バークレー