イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月12日(土):深代惇郎(ふかしろじゅんろう)

昭和4年東京生まれ。28年3月東大頬鵜学部卒。同年4月朝日新聞社入社。横浜支局員、東京本社社会部員、ロンドン、ニューヨーク各特派員、東京本社社会部次長を経て、43年論説委員(教育問題担当)46年ヨーロッパ総支局長、48年1月論説いいん、どうねん2月から50年11月、1日、入院するまで「天声人語」を執筆した。50年12月17日、旧制骨髄性白血病のため死去。・・・・・・・・・

この人の経歴はまさに、「東大卒」のお手本のように、出世街道をまっしぐらに進んだ。この人を知ったのは、天声人語を書いておられる時だったので、そんなに長くはないが、その書く文章は、軽妙洒脱、実に文章が上手かった。それに、文章そのものが、どことなくあたったかかった。どこかでも書いたが、この人の絶筆が、「斑鳩(いかるが)の白い道の上に」と言う本を読んで感想を書いたのが絶筆となった。わずか46歳だったと思う。「斑鳩の白い・・・」は聖徳太子の悲劇を描いた本である。その一族は皆殺しにされるという悲惨な運命をたどるが、その太子ゆかりの法隆寺をいつか尋ねてみたいと書いたのが絶筆になった。・・・・・・・・

この人はまた、大仏次郎の絶筆について「天声人語」に書いている。当時、朝日新聞に「天皇の世紀」と言う大作が掲載されていた。まさに、大佛次郎がライフワークとして渾身のおもいをもって書き続けていたものである。著者がどこかでインタビューを受けていた。「先生、この連載はいつまで続くのですか}との問いに「僕もわからないんだよ」と答えておられた。・・・・・・・

この途方もない連載が、休載になる前に書かれていた場面は明治維新北越戦争、「官軍」をっ迎え撃つ河合継之助の最後の場面である。「火を斌にせよ」とつぶやいた河井の最期を締めくくったのが、司馬遼太郎であるが、大仏はもう少し悠然としていた。関係者は、大仏先生が、継之助の最期を書けるのか、その前に先生の命が尽きるのか、固唾をのんで見守っていた。連載1555回目、休載と記して筆を置いた。その二週間後に静かに息を引き取ったという。負け戦は初めから覚悟していた河合継之助と同様、最後のサムライを描いて見せた。大仏次郎、偉大な作家であった。・・・・・・・大仏師の欠いた。ノンフィクションもすばらしかった。今もその大部分は私の書棚にある、ドレフュス事件パナマ事件、ブーランジュ将軍の悲劇、地霊、詩人、・・・・・。