イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月2日(日):笑いの泉

「カモメが百羽いました。一羽はカモメのジョナサンです。後の九十九羽は何というでしょう」答えは、「カモメの皆さん」。この答えを聞いて、げら、げら笑いだす人もいる、何が面白いのかと怪訝な顔をする人もいる。人がどんなことに可笑しみを感じるかは、世代により、文化により、人種により同じではない。笑いが「横隔膜の短いだんぞくてきな痙攣的収縮を伴う、深い吸気から生ずる」ことはわかるが、その原因は何であるかはむつかしい。古来、多くの学者がこの難問に取り組んできたが、なかなかうまい説明がない。近頃、「カモメのみなさん」式のクイズが、テレビや週刊誌で流行っているのは、どういう意味の社会現象なのだろうか、「ナンセンスクイズと」と自称するだけあって、他愛のない言葉遊びが多い。ワサビの効いた機知や、洒落たユーモァなりジョークなりを感じさせる知的なものはあまり見かけない。ナンセンスクイズの温床は予備校だという説もある。若い人たちが、こんなことでうさ晴らししているのかも知れぬ。・・・・

昔、明治の元号が決まったときに、上から見れば「メイジ」だが、下から見れば「治まめい」と言う意味の落首が出た。こういう可笑しみは、ダジャレ以上の何かがある。また、戦争中に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」というポスターがあった。「工夫」の工のを消した人がいた。(戦時中で男が招集されいた時分)。夫が家庭にいなかったのである。笑いの中にほろ苦さ、もの悲しさがこもっている。「贅沢は敵だ」と言う標語には、「敵」の上にそっと、「素」の字を加えた者もいたという、これでこの標語は「贅沢は素敵だ」となった。こうした言葉遊びは庶民感情を伝えて歴史に残っている。笑いが、常に風刺である必要は少しもない。しかし、今の言葉遊びは、あっけらかんとしている。しらけた空気、自嘲的気分の中で、横隔膜だけがけいれんしているように筆者には思える。(昭和50年4月10日、朝日新聞天声人語より。深代惇郎。)