イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月3日(月):神童

【十歳(とう)で神童、十五(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人】。とよく言われる。田舎の学校で成績抜群、なかなか見どころのありそうな子を、今ほど開かれた社会でなかったためか、案外神童と思われた子がいたものだ。ジェーン・エァを書いたシャーロッテ・ブロンテ。嵐が丘を書いたエミリー・ブロンテ姉妹の兄、ブランウェルもそうしたうちの一人だったろう。既に妹たちは小説を書き、有名になっていた。イギリスの田舎町で神童と呼ばれていた彼は、勇躍ロンドンへ出てみたものの、右も左も神童だらけだった。ブランウェル程度の者はロンドンには珍しくもなかった。文学と絵画での成功を目指し、妹たちに続こうとしたが、どうやらその才能は持ち合わせていなかったようである。妹たちの成功を見るにつけ、コンプレックスは増すばかり、結局、ただの人にもなりきれず、酒とアヘンで身を滅ぼし、1848年31歳で急死した。・・・・・・・

明日は、青森に出かける。7月5日で兄が亡くなってから一年になる、墓参りと、兄の残した家屋敷をそろそろ処分しなければならない、直ぐに売却するのには抵抗があって、一年延ばしていたが、不動産やから三件ほど問合わせが来ている、そのうちの一つの担当者と会う。どのくらいの金額が提示されるか、わからないが、1200万ぐらいになれば、いいのだが、さて、どうなる事やら。それはそうと、兄も、小学の頃は神童とまで言われなかったが、小学時代は、ずっと「級長」と務めた、昔は、今のように選挙、などで選ぶのではなく、担任の先生が、成績優秀な子を指名したものだった。20年ほど前、兄たちの同級会があった。青森にいた兄が珍しく秋田まで来て参加した。酒豪だったが、珍しく酩酊して我家へ帰って来た。あれほど酩酊した兄を見るのは初めてだった。よほど楽しかったのだろう、それで酒が進んでしまったのだろう。送って来た同級生が「級長」。「級長」と呼んでいた。彼らはみな、「定喜」とは呼ばなかった。小学時代の呼び方そのままで、60年以上経っても、「級長」だった。