イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月2日(日):赤い靴(靴)童謡

1.赤い靴(くつ)履いてた 女の子

  異人(いじん)さんに 連れられて 行っちゃった

2.横浜の埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って

  異人さんに連れられて行っちゃった

3・今では青い目になっちゃって

  異人さんのお国にいるんだろう

4・赤い靴 見るたたび考える

  異人さんに逢(あ)うたび考える

『赤い靴』は、1922年(大正11年)、野口雨情作詞、本居長世作曲で発表された童謡である。2006年(平成18年)に日本文化庁日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選定された。4番の詩は原稿段階では「赤い靴見るたび思い出す」だったものを「考える」と直した跡がある。(自分的には前の方がいいと思う)。それに、昭和53年になって、発見された草稿には以下の5番もあった。・・・・・

5・生まれた日本が恋しくば

  青い海眺めているんだろう

  異人さんに頼んで帰って来(こ)。

この赤い靴の歌詞は、実話をもとにして書かれていたとの説がある。野口雨情は明治40年札幌の北鹿新聞社に勤務していた時、岩崎かよと知り合った。定説によると、岩崎かよの娘である「佐野きみ」(明治35年~同44年)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。(岩崎かよの娘、きみが、佐野きみとなっているが、私生児である)。岩崎かよは静岡県の出身で、山梨県の紡績工場に働きに出ていたが明治35年身重となり、一人で帰郷し、きみを生んだ。やがて彼女は北海道に移民として渡り、そこで鈴木士郎と知り合い結婚した。彼と共に平民社運動にたずさわり、農場の開墾に携わった。その開墾生活の厳しさもあり、明治40年頃に娘のきみの養育をアメリカ人宣教師、ヒュエット夫妻に委ねることになった。しかし、宣教師夫妻が帰国することになったのだが、その養女になったきみは、結核に冒されている事が判明した。アメリカに連れ出すことが出来なくなってしまったのである。宣教師夫妻は、きみを鳥居坂教会の孤児院にあずけることになるのである。そして、きみは、孤児院で母親かよと会うこともなく、9歳で他界したのである。母親のかよは、娘のきみは、宣教師夫妻とアメリカに渡ったものとおもい、東京の孤児院で結核で召されたことを知らず、生涯を終えたと言う。・・・・

教会の拡張工事の時、ちえこが、CDを持ち出し、多分、森佑里の歌うこの「赤い靴」をかけていた。妙にもの悲しい、この曲を調べて見ると、なるほど、悲しい物語がそこにあった。まさに、日本の明治末期の、世相を反映しているかのような、一人の小さな女の子の、9歳の生涯があった。