イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

3月15日(金):清貧の人

イリアムズは、1829年アメリカに生まれました。父は彼が幼い頃に戦死し、母の手一つで育てられました。母の信仰を見ながら育ち、24歳で宣教師になることを決意し、最初は中国へ渡りましたが、1859年(安政6年)に日本への最初のプロテスタント宣教師としてやって来たのでした。当時の日本はまだ、キリスト教を信じることを禁じている時代で、その高札が立てられ自由な伝道は出来ませんでした。それで、ウイリアムズはことばによらず、行いによって伝道することを心掛け、どんな人人へも親切を尽くして助けました。・・・・・

『清貧の生活』。ウイリアムズの月給は月700円でした。それでも彼は毎月15円で生活しました。いつも粗末な食事で済ませ、冬はストーブも焚かず、服はと言うと、いつも古着屋から買っていました、また、古ぼけたカバンを下げて旅行に出かけるので、しばしば、「西洋乞食」と間違えられました。ある時、駅の待合室で、「乞食坊主は向こうへ行け」と駅員に叱られて、言われるままに、待合室の片隅にいたのですが、大勢の信者さんが見送りに来たので、その駅員はビックリして、恐縮してしまったというようなエピソードもあったようです。・・・・ウイリアムの家には炊事の人がいて、買い物をして帰るとしばしば、もっと安いものをに代えて来るように言れるので、炊事人は我慢できなくなり「どうぞお暇をください」申し出ました。「仕方がありませんね」とウイリアムズは言って、一冊の預金通帳を渡してこう言いました「これは買い換えてもらった時に浮いた分をあなたの為に貯えておいたものです、」。それを聞いて炊事人は驚いて、自分の不心得を深く詫びて、それからは、忠実に仕えたということです。ウイリアムズはあまり日本語は上手ではありませんでしたが。しかしその話し方には不思議な力がありました。また、誰でも彼を見ると、イエス様を見るような気がして、仏教のお防さんまで、その人格にうたれて合掌したということです。彼は30歳で日本へ来て、79歳まで力の限り働き通したので、頭も体も動かなくなり困難を覚えるようになりました。このままだと、人の厄介になってしまう、それは避けねばならないと考え、ひそかに日本を離れ、母国アメリカで日本の救いのために祈り続け82歳で眠るように天に召されました。・・・・・・

イリアムズに関する、逸話と美しい詩が遺されている。それを紹介しよう。

イリアムズ監督は

築地の赤い煉瓦造り

蔦が一面にはえ繁った

古びた建物の二階に住んでいた

そこには道を一つ隔てた立教女学院

寄宿舎からもよく見えた。

 

朝6時になると

イリアムズ監督のお部屋の「窓が

夏冬問わず開いた

夜の十時になると

必ず電灯が消えた

立教女学院の寄宿舎では

朝がくると 舎監の先生が叫んだ

「監督さんのお部屋のお窓が開きました

さぁ、皆さん起きて・・・・・」

夜が更けると

「監督さんのお窓の灯りが消えましたよ

いつまでもお話しないで、

さぁ、早くおやすみなさい」

と言った。

みんなの目と心が

いつも老いた聖者の物静かで敬虔な

一挙一動に向けられていた。

3月9日(土):ヨナ書の主題

この前の説教主題は、ヨナ書の主題ということで話した。最近旧約聖書から少しずつ話すようにしている。信徒さんもなかなか、旧約を読む機会もなく、正直たとえ、読んだとしても、その内容を把握するのは非常に困難である。牧師自身にしてもそれは同じなのだが、いろいろ、解説書を持っているだけに、何とか読み込める部分もある、というのが実情だ。・・・・さて、ヨナ書であるが、全体を見ると、感じることは、イエス様の譬え話に似ているということである。ただ、かと言って、このヨナの出来事を、譬え話だけに留めておくのには無理がある。それは、イエス様自身がこの、ヨナ書に言及しておられること。それに、旧約には、ヨナが実在の人物であることが、書かれている。そんなわけで、このヨナ書自体を、単なる、空想、作り話、比喩的に捉えることはできないということが分かってきた。・・・・・ヨナについては、その預言者として資質が問われている、いわゆる、その「性格の悪さ」。「神への不従順さ」。「頑固さ」。旧約の他の預言者とは全く異なる資質がいくつもあげられる。・・・・・こうした事柄を勘案しながら、それではこの書の、「主題は何か」と問われれば、『神があなたの敵を赦す、と言うことをあなたは受け入れられるか?」。と言うことなのだそうである。要するに、ヨナはあの暴虐の都市、ニネベを、どうしても赦すことはできなかった。たとえ、自分の命を懸けても、「ニネベは滅ぶべき」。それに対する神の回答は、その最終節にある。すなわち。『主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜に生え、一夜で滅びたこの党ゴマをさえ惜しんでいる。まして、わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか』。最後に、一つ気がかりな事がある、果たして、ヨナは神の最後のメッセージをどのように受け止めたのかと言う問題である。それはこの書の作者が誰であるかに、絞られる、この書をヨナ自身が書いたのであれば、当然ヨナは、神の最後のメッセージを受け入れ、悔い改めたことであろう、その証としてこの書を書いたと認めることができる。しかし、一方、第三者が書いたとすれば、ヨナは、旧約時代神に逆らった、性格の悪い、預言者としての見本にされた、ということになる。さて、どっちなのかな?。

 

3月7日(木):出自

 

歳とったせいか、このところずっと昔のことばかりやたらと思い出す。そうかな?。とちえ子に聞くと「そうだ」。と言う。聞かなければよかった。・・・・母方の祖父は、神官で、教育者で田舎のことではあるが、教育長まで務めた人である、代々そうでその息子も同じであったが、わたしの覚えているのは、宗教家としての「威厳」のある祖父である。母に連れられて実家に行くといつも、祖父に挨拶するように言われた。「よっちゃん、おじいちゃんに挨拶して」と。そう言われて、床の間に入って行くと、祖父は床の間に正座して待っていた。奇妙なことに誰から教わるでもなく、私は祖父の前で正座し、畳に頭をこすりつけるようにして挨拶したものであった。今の時代「孫」と言う歌が出来て流行り、世の中は、おじいちゃんが孫に頬ずりするような時代である。・・・私は、幼い心の中で、この人は神様にお仕えしている人なのだな、とおぼろげに感じたものであった。・・・・ちえ子の姉、川村さち、川村牧師につらなる人たちおられたのは、牧師を目指す者にとっては、どれほど支えになったかははかり知れない。「身内」に、牧師4名、宣教師1名、まことに心強い。牧師は特殊な職業である。およそ、同僚の牧師、よほど肝胆相照らす中でもない限り「厄介」な存在である。善意のかたまりのような、信徒さんの言葉は、牧師の心臓を射抜く、優しい信徒さんに囲まれていると、いつの間にか、裸の王様、になってしまう。・・・・それでも、これまで、多くの人たちの出会いを通してここまで、来られたのかもしれない。その一つ、一つの出会いを、今は、なるほど、なるほどと思っている。

 

3月5日(火):米澤屋

二三日前町へ買い物に出かけた。大体十時ころ出かけ、二時間ほど買い物をして、お昼に食事をして帰る、というのがいつものパターンだ、その日も、「今日はどこで食事をしようか」と考えた末、久しぶりに「米澤屋」で、トンカツでも食べようかということになって、駅前近くの小路へ行った。駐車場に車を留めて、店へ行くと、閉店の看板がかかっていた、定休日でもないのにおかしいなと思って、見ると、何んと「廃業」のお知らせであった。実のところ、最近、臨時休業やら、時間限定営業があって、どうしたのかなと、心配していたところだったのである。しかし、この「廃業のお知らせ」にはさすがに愕然とした。・・・・・・思えばこのトンカツ屋に通い始めて、40年以上になる。その頃は随分人気のある店であった。トンカツ屋にしては割と高級感があって、客も、そうした人たちが多かった。会社の営業マンがよく、接待に使っていたし、役所の連中もちょくちょく、利用していた。私も、トンカツ好きだったので、どこの街へ行ってもその地のトンカツ屋を探しては、常連客になってきたような気がする。初代の「オヤジ」は中学時代の同級生と高校が同じだったので、随分親しくしてもらった記憶がある。十年ほど前、二代目息子に代わったが、思えばその頃から、少しづつ客を減らしてきたようだ。カツの厚さが薄くなり、客への対応がおろそかになっていたのは否めない。小さなことかも知れないが、その小ささが次第に客足を遠のかせてきたように思われる。時代の流れというものなのかも知れない。たかが、トンカツ屋、されどトンカツ屋、何となく、時代の流れを感じる、「旧き良き時代」のあのホクホク感のする、食事はもう味わえない時代になってきたのかも知れない。忙しい時代になってきた、何もかもが、ゆっくりものを考えるいとまさえ与えず、時は流れていく。

 

2月23日(金):ならず者たち

ダビデがサウル王の追及をのがれ、アドラムのほら穴にいるとき、しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、集まってきた。』(サムエル上22:2)。このほら穴に不満や悩みを持つ人が集まってきたらしい。ダビデはそれらの長となった。・・・・上杉鷹山は、と言えばその藩政改革については学校の教科書にも載っていたくらい有名である。彼が藩主になった時、幕府に版籍を返上しようと思うほど、財政は逼迫していた。今風に言えば、北海道の夕張市みたいなものだったのである。鷹山が最初にしたことは、藩内で「冷や飯」を食っている者を集めよ、ということであったらしい。負債や、不満を抱え、しいたげられている、ならず者たちである。新しい藩主は、その彼らに藩政の改革を委ねたという。一般社会から認められない者たち、不良たちである「変人」たちでもある。・・・・・イエス様は言われた、「ザァカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるら・・・」さげすまれ、しいたげられ、心に深い傷を負っている者でなければ、イエス様のこのお言葉の優しさはわからない。ダビデのもとに集まった「ならず者」、鷹山が召した「冷や飯食い」。ザアカイ.

 

2月20日(火):ヨブ記


『ヨブは知らされなかった』。ヨブは自分の試練についての説明を知らされなかった。すべてが、この単純な事実にかかっている。ヨブが知っていたとしたら、信仰の余地をなかったし、火に試された金のようになることもなかった。神には、現在私たちにみ心を明かせないこともある。その事をしっておかなければならない。聖書は啓示としてだけではなく、「留保」としての意味もある。信仰を理解可能なものとするには十分な啓示があると同時に、信仰が成長するためは留保も必要なのである。・・‥繰り返しになるが、ここにこそ、この書の使信がある。すなわち、説明はあった、ただ、ヨブはそれを知らされなかったということである。結局のところ、この書においては、「ヨブの苦難」または、人々の苦難の意味ということは明かされていない。とてつもない、長い友人たちの弁論も、ヨブの反論さえ、的確な回答とは言えないのである。・・・・・

結局我々は、どこに帰っていくかと言えば、最終章のヨブの言葉に尽きる。

『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました』。ヨブにとって、これまでの神に関する知識は、『うわさ』でしかなかったと表現するほど頼りないものであることを悟ったのである。そして、ヨブが実際に神を見、体験した時、新たなる真の知識が与えられた。『それで私は自分をさげすみちりと灰の中で自分を悔い改めます」。と、告白する者になった。

 

2月7日(水):小鳥への説教

ふと道端の一本の樹を聖フランシスコは見た。その樹にはあらゆる種類の小鳥がいた。ついぞ今までにこの地方に見かけない鳥さえいた。地上にも。樹の下にもたくさんいた。このおびただしい小鳥を見た時、、天の霊がフランシスコに降り、フランシスコは弟子たちを振り返り「ちょっと待ってください。私は小鳥の姉妹たちに説教しましょう!!!」。と言った。そこでフランシスコは、地上の小鳥たちの方へ歩んだ。説教が始まるか、はじまらないうちに、樹の上の小鳥たちははばたいて、フランシスコの所に降りて来た。フランシスコの衣が何羽かの小鳥に触れるほど近寄っても、少しも身じろぎもしなかった。フランシスコは小鳥たちに話す。「私の姉妹、小鳥たちよ、あなたがたは沢山の御恩を神から受けている。それでいつも、どこでも神を賛美しほめたたえなくてはなりません。何故でしょう。あなたたちはどこへでもあなたの行きたいところへ飛んでいける。そして、二重にも三重にも重ねられたその着物や、色とりどりの美しいその衣裳や、また生きるために働く必要のない食べ物や、創造主があなた方に教えられた綺麗な声のためです。あなたがたは種まくことも、刈り取ることもしませんけれども、神はあなた方を養っておられます。飲むためには川や泉を、身をかくまうためには山だとか丘だとか、崖だとか、岩だとかを。また、あなた方ねぐらを造るためには高いもろもろの樹をお与え下さっている。あなたがたは紡いだり、織ったりすることはできないけれども、神はあなたたちや子供たちのために必要な着物をお与え下さっておられる。このように大きな恵をあなた方に創造主はお与えになっておられるから、あなたがたは創造主を深く愛しなさい。あなたたちは恩知らずでないように、神を賛美することにいそしむように、よく気をつけるのですよ!!!」

この聖なる言葉が終ると、この小さな小鳥たちは、嘴を開けて、はばたいて、首をのばし、うやうやしく地に頭を垂れて始めた。そして歌と踊りでフランシスコの話が非常に楽しかったことをあらわした。フランシスコはこれを見て、心がわくわくとして歓びにたえなかった。こんなにたくさんのしかも種々異なった小鳥がなついて来る。聖フランシスコは、小鳥たちに創造主だけを賛美するように、優しくすすめた。。・・・・

こうしてフランシスコは説教し、神を賛美するように勧めおえると、小鳥たち一同の上に十字架の印をした。すると、小鳥たちはすぐさま舞い上がり、力強くさえずりながら、別れて飛んで行った。

アシジの街全景。この町の両端に、フランシスコの修道院、一方にクララの修道院がある。