イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月20日(火):ヨブ記


『ヨブは知らされなかった』。ヨブは自分の試練についての説明を知らされなかった。すべてが、この単純な事実にかかっている。ヨブが知っていたとしたら、信仰の余地をなかったし、火に試された金のようになることもなかった。神には、現在私たちにみ心を明かせないこともある。その事をしっておかなければならない。聖書は啓示としてだけではなく、「留保」としての意味もある。信仰を理解可能なものとするには十分な啓示があると同時に、信仰が成長するためは留保も必要なのである。・・‥繰り返しになるが、ここにこそ、この書の使信がある。すなわち、説明はあった、ただ、ヨブはそれを知らされなかったということである。結局のところ、この書においては、「ヨブの苦難」または、人々の苦難の意味ということは明かされていない。とてつもない、長い友人たちの弁論も、ヨブの反論さえ、的確な回答とは言えないのである。・・・・・

結局我々は、どこに帰っていくかと言えば、最終章のヨブの言葉に尽きる。

『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました』。ヨブにとって、これまでの神に関する知識は、『うわさ』でしかなかったと表現するほど頼りないものであることを悟ったのである。そして、ヨブが実際に神を見、体験した時、新たなる真の知識が与えられた。『それで私は自分をさげすみちりと灰の中で自分を悔い改めます」。と、告白する者になった。