モーセの生涯を想うとき、モーセに限らずアブラハムに始まり、パウロやヨハネに至るまで、その生涯は苦難の歴史である。
私たちは、少なくとも自分は、かの聖徒たちのように生きたいかと問われれば、イエス様には申し訳ないが「平に(ひらに)ご容赦を」と言わざるを得ない。そういえば、モーセも「私は口下手で・・・」とお言葉を固辞したことがあった。また、「もう、沢山です、もう、私はこの民を導くことは出来ない、私を殺して下さい」と主に申し上げたこともあった。・・・
波乱万丈の生涯を、物語として読むには面白いが、わが身に
降りかかってくるとなると、話は別である。スタコラサッサと
逃げるが勝ちである。丁度、ヨナのように、タルシシへでも行って「難」を逃れる方が良いと考えるのである。・・・・・・
しかし、私たちの間に堅く言い伝えられている言葉がある。「神の召しと賜物は変わらない」・・・多分それは変えられないと理解した方がいいのかも知れない。・・・・・・・・・
・・・申命記34章は、締めくくりである・・・
モーセの苦難の歴史は終わった。見方にによっては、その昔、百二十年前ナイルの川岸、葦の茂みに沈んでしまっていた方が
彼にとって、しあわせであったのではないかと思われる生涯であった。そして、今また、「乳と蜜の流れる地」を目前にして、『おまえは、ここで死ね』と言われる。『ありて、あるもの』に襟首を掴まれ、振り回されたような生涯であった・・・
森 有正だったと思うが、アブラハムの生涯について書いている。彼の生涯が現世的にみて、しあわせだったのかと。そうではあるまい、そうではあるまいと述べている。モーセもまた同様である・・・・・・我々は、「見果てぬ夢」十字架の贖いの向こうにある、その祝福に目を留めないならば、すべての事が空しい。・・・
モーセもアブラハムもイサクもヤコブもこの「一事」は知っていた。