今日は、今朝開いた榎本保朗師の一日一章(旧約)を紹介します
・・・(彼らはその旅路において常にそうであった)・・・
出エジプト40章:36節
『イスラエルの人々はエジプトを脱出してから二年目の正月元旦に、幕屋の建造を終わった。雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。主の栄光が満ちてこそあかしの幕屋である。」モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。と記されているが、ペテロは主に出会ったとき、ひれ伏して(倒れて)「主
よわたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだように、神の現臨にふれるとき、人はだれでも足がすくみ、地に倒れ伏すのである。私たちが立ったままで主の名を呼ぶことができるところに、わたしの今の問題があるのでなかろうか。・・・
イスラエルの人々は雲が幕屋の上からのぼるとき彼らは道に進み
雲がのぼらないときは、そののぼる日まで道に進まなかった。彼らはその旅路において常にそうであった。信仰のきびしさを思わしめられる言葉である。彼らとて旅に疲れることもあったろう。しかし、彼らは雲がのぼれば、彼らは進んだのである。また彼らとて旅人、持っているものにかぎりがあったことである。早く目的地に着きたいとという願いもあったことであろう。しかし、彼らは、雲がのぼらなければ、決してそこから立ち上がろうとはしなかったのである。彼らはその旅路において常にそうしたのである。
・・・・預言者エレミヤは偽預言者について次のように預言している。「(彼ら)はわたしがつかわさなかったのに、走った。わたしが告げなかったのに、彼らは預言した(エレミヤ23章21節)。預言者のつとめは神の言葉を語ることである。人を恐れず、環境に支配されず、ただ神の言葉を語ることであった。
しかし、偽預言者は神より人を恐れ、神に喜ばれることよりも、
人の関心を求めて、自分の言葉を語ったのである。・・・・・
預言者が常に苦しみ、悩み、迫害されたように、神の言葉に聴き従おうとするとき、その道は決してやさしい道ではない。その門は狭く、その道は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者は少ない。しかし、この門こそ命に至る道である。彼らはその旅路において、常にそうした。私たちもこのイスラエル人のように
よし何をなし得なくとも、神のみあとに従うことに生き抜こうではないか。』・・・・・・・
私が記録しているところによれば、この聖書の個所は、6月23日
にも同じく開かれている。神のみ言葉を受けたなら、常にそうしなければならない。ブレてはならない。
YES・・・と言う言葉の後には、「はい、従います」の言葉以外はない・・・・・
NO・・・という言葉のうしろには、沢山の言葉が並ぶ。