イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月18日(土):科挙

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科挙(かきょ)。中国でAD598~AD1905年(清朝末期)まで続いた官吏登用試験。中国全土から優秀な人材を集め、行政府の役人と

した。合格者はほぼ、立身出世を約束されたようなものであった。このような制度は世界に類を見ない。・・・・・

日本にはこれに多少まねた制度があった。徳川時代、各藩が開いていた藩校というものである。藩はここから優秀な人材を見出して登用していた。有名なのは、私塾ではあったが、「松下村塾

である。期間が短く程度もそれほど高くはなかった。しかし、

ここから多くの尊王攘夷の志士が出て明治維新の原動力となった。そこで教えていたのが吉田松陰で、塾生には、後の伊藤博文

久坂玄瑞桂小五郎、木島又兵衛、高杉晋作・・・そうそうたる人物が揃っていた。幕末の尊王攘夷の機運は、吉田松陰の門下生から始まった。・・・・・・

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吉田松陰は、幼少のみぎり長州藩主の前で「講義」をしたという。その後、松陰は幕府によって切腹させられたが、介錯人はこれほど見事な侍は見たことがないとまで述べている。長州藩主は、その幼少の頃の松陰を覚えていて、松陰の命日には、「膳の生もの」には箸をつけなかったという。・・・・・・

明治政府は中国の科挙制度を取り入れようとした。「帝国大学

の設置である。いわゆる帝大は最初から国の高級官僚の養成校としての使命を担っていたものである。・・・・・・

戦後「東京大学」に入学してきた若者に、ある有名な教授(名前は忘れた)が彼らに質問した「諸君たちの先輩たちの多くは今どこにいるか、知っていますか?」。大蔵省、通産省、外務省・・

いや、彼らは今「巣鴨プリズンにいる戦犯として、君らの先輩の多くは、刑務所の中にいる。」・・・・・・・ 

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        ・・・体制の滅ぶ時・・・

蒼穹の昴において、時の皇帝が詔(みことのり)を発し、千年以上続いてきた科挙制度を廃止した。科挙制度の功罪はさておくとしても、中国の歴史を貫くすぐれた制度であったことに間違いはないが、そのような改革のみでは立ち直れない状況にあったということである。体制が、組織が構造的に腐敗し、悪臭を放っていたら、それは滅ぶしかないのである。・・・・・・

ダビデの王国ももろかった。ソロモンの子レハベアム王の初期に南北に分裂した。北イスラエル王国と、南のユダ王国に分かれた

二つの王国は初めから凋落の道をたどった。北イスラエル王国

アッシリアの捕囚の民となり、歴史に彼方に消えた。(BC582年)。南のユダ王国は、それから140年後に、バビロン捕囚となった。しかし、彼らは歴史の彼方に消えはしなかった。

70年後。「ユダ」はクロス王によって、帰還させられ、エルサレムを再建した。このような摩訶不思議を私たちは、世界の歴史にその類例を見ることは出来ない。「民族の復活」である。

・・・主、イエスの復活はこの500年後の事である・・・

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この稿は、前日も含め2011年6月夏季号 ペンテコステの日にとある