《それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です》
・・・マタイの福音書7章12節・・・
私は最近あまり人に「悪意」というものを抱かなくなった。昔は人間嫌いで、人に会うと何となく不愉快なものを感じていたものだった。会社勤めをしていた頃、「性格診断テスト」と言うものをやらされたが、勿論、全社員だが、私に返ってきた診断結果は
「暗い対決型」であった。半分腹が立ったが、半分納得するところもあった。それもそのはずで、小学生の頃の私のあだ名は、「喧嘩士」であった。あくたれ小僧で、しょっちゅうもめ事を起こしていた。それがずっと尾を引き社会人になっても、そのなごりは改まらなかった。それが不思議なことがあるもので、いつの間にか「人間大好き人間になっていた」自分も含め人が、やたらにいとおしく思えるのである。昔は、自分の顔を鏡に映して見るということはなかったが、そうなると、鏡に向かって、「うん、
まんざらでもないな」と一人だけで悦に入る。・・・・・
定かでないが,亀井勝一郎とかいう評論家がいて、「自分の顔に自信が持てたら一人前」と言うような事を書いていた。50歳前後でそんな時期が来た。・・・・・
しかし、イエス様のお言葉は、私をぎゃふんとさせた。
『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい』どうやら、人に対して悪意を抱かない、悪を行わない。というだけでは済まないことをイエス様は求めているらしい。イエスの教えは、元々、誰もが知っていたことがほとんどである。エッセネ派や、クムラン教団の戒律や、教えの中に、イエスの教えのほとんどがある。当時の、高名なラビたちなら、苦も無くイエスの教えを、イエスから聞くまでもなく知っていた。
・・・しかしながら・・・
『自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそうしなさい』
とは、誰一人語った人はいない。親は子供たちに、何々をしてはいけませんよ。と丁寧に教え、諭したが、お友達が望んでいることをしてあげなさいとまでは教えない。そういうことをしてはいけませんよ。ということは山ほどある。イエスの勧めは、それでは済まない事を語っている。キリスト教倫理の最高峰がここにある。人の嫌がることはするなという倫理はどこにでもある。イエスの言葉はこうである『人々からしてほしいと(自分が)望むことは、人々にもその通りにしなさい』・・・・・裏声でこっそり、厄介なことになったと思っている。・・・・・・
コロナが段々大変なことになってきた。今一番恐れているのは、今後罹患者の中に後遺症が残らないかという心配である。今度のコロナはこれまで
前から言っているが、悪質だ。この前書いた水野源三も、赤痢の後遺症が原因だ。高熱は、脳の細胞を破壊する。これが起こったら、ただではすまない。ここ二三十年社会は少し浮かれ過ぎた。