イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月5日(土):行きなさい

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ヨハネ福音書に奇妙な記事が記されている。8章1節から11節までの

姦淫を犯した女が、パリサイ人や律法学者らによって、イエスの所に連れてこられた出来事である。後世の学者は、この記事は、直接ヨハネの手によるものではないのではないかとの、疑問を述べている。確かに、聖書の流れにそぐわない唐突感を読む者に与える。この箇所に使われている用語もヨハネのものとは異なるともいわれているが、残念ながら、そこまでは私たちには分からない。いずれにせよ、古い写本にはこの出来事に関する記録はほとんど見られないということである。・・・・・・

(しかし、一部の写本にそれらしきものが、僅かに残されている)

しかしながら、この記録は聖書の記すところであって、それを削除するいかなる理由も見出すことは出来ない。そして、何よりもイエスの赦しと再生への道が見事に描かれている場面だからである。・・・・・

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エスの言葉はこうであった。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません』。このイエスのお言葉を

安易な赦しととらえることはできない。実際に裁くことをやめられたのではなく、彼女に再生の道、機会を与えたのである。バークレーはこれを

「執行猶予」と表現している。「たしかにあなたがひどい失敗をしたことはみとめる。だが人生はまだ終わってはいない。わたしはあなたに機会を残そう、それはあなた自身を償う機会だ」・・・・・・・

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『やり直しのできる国』

すばらしい国がどこかにあったなら、

すべての誤りと心の痛み

つまらぬわがままな悲しみを、みな

みすぼらしい古着のように戸の外にぬぎすてて、

ふたたび身につけなくてよいように、

すて去ることができたなら。

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エスには第二の機会という福音がある。イエスの関心は常に、人が過去にどうであったかということだけでなく、人が未来にどうなるかということに、強烈に注がれる。もとより過去に行ったことを全く問題にしないということではない。しかし、イエスは、過去とともに、未来のあることを私たちに教えている。『さぁ、婦人よ行きなさい。わたしは、やがてあなたに会えるのを楽しみにしています』・・・・・・

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 9月3日に書いた「笑いの泉」に思わぬ反響があった。全く知らない人々から15個ものお星さまをいただいた。ジョーク集を載せたものだが、こういうものがうけるのかな、と複雑な気がしないでもなかったが、辿っていくと結構真面目そうなひとたちであった。二匹目のどじょうを狙っているが、まだ十分資料が揃わない。その内またみんなを笑わせよう。ご期待あれ!!!・・・・

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楽しみにしてるわ