イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月6日(日):やぁ、久しぶり

 

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片田舎の小さな村はずれに、「北秋田 恩寵教会」という小さな出店を出しているが、時々、お客が訪ねて來る。この一週間で二人目の人が来た。

しばらく前から、行きたいと電話があったのだが、約束の日に現れず、連絡もなく、不快な思いをさせられていた。それでも、「意を決したのか」

昨日電話があって、今日の礼拝に出席するとのことであったが、今度はその言葉通りに来てくれた。(ただし、ご主人は来なかったが)・・・・

『やぁ、久しぶり』とは言ってみたものの、およそ、45年ぶりの「久しぶり」であった。私が牧師になる前、在籍していた教会の信徒で、途中教会を離れ、結婚したが、以来会ったことはなかった。教会は離れたが、信仰はどこかでくすぶっていて、ご多分に漏れず、あちこちの教会を渡り歩いてきたようであった。結局、あちこちの教会を回り、あちこちで「躓き」。今は「フリークリスチャン」のようであった。・・・・・・

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そう言えば、去年も同じようなことがあった。その人は、自分で計算して

「やぁ、38年ぶりです」と言った。妙なことがあるもので、今日の人は

「肺癌で、手術も出来ない場所だ」と言っていた。多分、途方に暮れて、ここを訪ねてきたのであろう。しきりに、癒しと奇跡に頼ろうとしていた。私は意外と薄情な男で、まだ60歳の人なら別だが、その人はもう80歳に近い。いかに長生きするかより、いかにより良い余生を生きるか、そんな生き方をすべきだ!。とは思ったもののさすがに口にはだせなかった。人は必ず死ぬ。そのことを正しく受け止めなければ、主の道を歩むことはできない。忘れてはいけない。私たちには「み国への希望がある」。

主イエスが命をかけて私たちに与えてくれた、最高のプレゼントである。

今、癒しや、奇跡に思いを馳せるより、カルト的思考を膨らませるより、

むしろ、主イエスの約束の言葉を信じ切る信仰が大切なのではないかと思った。

主は常に私たちに問われる。「わたしを信じますか」・・・・・

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先週は、工藤さんとちょっと行き違いがあって、心配したが、今朝元気な顔を見て安心した。ちえこ朝顔を植えて、花をいっぱいついたから、見て、見てとうるさい。おいしい実でもなればもっといいのだが・・・・